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ソファーに横になりながら、民喜は改めて「**町災害復興計画(第二次)」に記された太字ゴシックの一文を読み直した。

 

早ければ、2017年(平成29年)4月の帰還開始を目指します

 

再来年の4月と言えば、ちょうど自分が就職をして働き始めている時期だ。そう思い至ると、胸の内によく分からぬ不安が湧き上がってきた。

民喜は現在大学3年生、来年になると就活を始めなければならない。しかし就きたい職業について、民喜はまったく考えがまとまっていなかった。友人の中にはすでに就活対策を始めている者もいる。何か始めなくてはいけないと焦る気持ちはあるのだが、どこから手をつけてよいのか分からない。

特にやってみたいと思う仕事はなかった。現時点で特別に興味をもっていることもない。大学での成績も中の下くらい。人とコミュニケーションをするのも得意ではない。これからどうしたらいいのか、どうしたいのか、自分でもよく分からない。それでも、何かしら分野を見定めて、就職先を考え始めてゆかねばならない。

そのようにして先のことを考えようとすると、民喜は決まって正体不明の倦怠感に襲われた。そう言えば、ここ数か月は特に、そういう状態の繰り返しだったように思う。将来のことを考えようとしただけで、心身共に疲れを覚えてしまう自分がいた。

決断を先延ばしにするために大学院へ進むという方法もあった。が、特に学びたいことがないのに大学院に進むことに、幾分かの後ろめたさも感じていた。また、院に進むなら進むで、そのための準備をこれから始めねばならない。「決断を先延ばしにするために大学院に進むという決断」を下さなければならない。

何も決めないでいる猶予期間は、結局、我々学生にはたった2年ほどしか与えられていないらしい。それは思っていた以上に、あっと言う間だった。

帰還についても同様だ。帰るのか、帰らないのか。それとも、その判断を先延ばしにしておくのか。いずれにせよ、それぞれが何らかの決断を迫られている。「帰る・帰らないの決断」を先延ばしにするのだとしても、決断を先延ばしにするための「第3の道を歩むという決断」を下さなければならない。

冊子を読み続けるのがしんどくなってくる。民喜はファイルを閉じ、ため息をついた。頭にズキッと鈍い痛みがした。

先のことを考えるのがどうしてこんなに憂鬱なのだろう。将来のことを考えるのがどうしてこんなにしんどいのだろう……。

いまの自分には、何かを決断する力がない。エネルギーがない。できることなら、先のことについて一切合切、思考停止のままにしておきたい……。

民喜には「明るい未来」というものが想像できなかった。この先、希望に満ちた未来が自分を待っているとは思えない。反対に、自分の歩む先には暗い、何か「陰惨なもの」が横たわっているように感じていた。

自分の人生はいつか、その陰惨なヤツに突然襲いかかられて終わりになるような気もする。その陰惨なヤツに見つからないようになるべく気配を消して、細々と、せめてそれなりに楽しく生きてゆくしかない……?

自分を睨み付けるイノシシの顔が脳裏をかすめる。

ソファーから起き上がり、台所へ向かう。冷蔵庫を開け、何か飲み物を探す。並べられている缶ビールに一瞬惹かれたが、目を逸らし、麦茶の入ったポットを取り出した。麦茶をガラスコップに注ぎ、ゴクゴクと一気に飲み干す。

リビングに戻ってソファーに座った民喜は、ファイルに収められた復興計画を改めて見返した。表紙にはカラー写真で故郷の風景が散りばめられている。満開のツツジが咲き誇る線路……火祭り……ロウソク岩の写真もある。ロウソク岩の写真を見た瞬間、民喜の胸に痛みが走った。

 地震によって、根本から失われてしまったロウソク岩。岩の本体は、いまどこにあるのだろう。どこかずっと沖の方の海底に沈んでいるのだろうか。それとも、津波に押し流される中で、バラバラに砕け散ってしまったのだろうか……。民喜はまるで自分の体の一部が失われてしまったかのような悲しみを覚えた。

裏表紙を見てみると、ページの全面に桜並木の写真が載せられていた。写真の下には「桜のもとに、町民が再び集える日を目指して」という一文が付されている。冊子の中では桜並木が町の復興のシンボルとして位置づけられているらしかった。

バリケードで封鎖されたあの桜並木の様子が脳裏に浮かんでくる。バリケードの向こうに続いているはずの道は、薄暗闇に覆われてしまっている――。

「俺らホモ・サピエンスそのものが、はじめから生まれて来ない方がよかったんじゃねえか」――

ふと胸の内に駿の言葉がよみがえってきた。

 

 

夜、なかなか寝付けない。

 民喜は布団から起き上がり、電気をつけてテーブルの上に置いてあるスマホを手に取った。両親も咲喜も、とうに寝てしまっていた。

今日は何故だか心のどこかでずっと明日香の存在を感じていた。「**町災害復興計画」を眺めながら、同時に、明日香の姿を心の片隅に思い描いている自分がいた。

スマホの画像フォルダを開いてみる。フォルダの中に、何枚か明日香が映っている写真があるはずだった。どの写真もコーラス部のメンバーが一緒で、残念ながら明日香が一人で映っている写真はないけれど……。

 フォルダの中に、本館前の芝生広場で写した写真があったので、クリックしてみる。今年の4月の新歓パーティーの際に皆で撮った写真だ。少しまぶしそうな表情で笑っている明日香。胸のところで控えめなピースサインをしている。

明日香が写っている部分だけを拡大してみる。拡大しすぎて、画像が荒くなってしまったので、また幾分縮小する。

満開の桜を背にして彼女が『朝』を歌う様子が心に浮かんでくる。涙をこらえつつ懸命に歌い切った後、

悲しい時は、いつもこの曲を思い出して、歌ってた。すると勇気が出て来るというか、それでも、やっぱり生きて行こう、って気持ちになる

 彼女はそう呟いた。そうして自分の方をまっすぐに見つめた。自分を見つめる彼女の目には、悲しみと共に、確かな光が宿っていた……。

布団に横になったまま、民喜はしばらくスマホの中の明日香の顔を見つめ続けていた。

 

時折思い出す記憶の断片がある。

ある日のコーラス練習の休憩中、前かがみになった明日香のTシャツの隙間から胸元が見えたことがあった。

彼女は床にかがみこんで熱心に楽譜か何かを探していたので、しばらくそのままの姿勢を続けていた。服を着ているとそれほど大きくは見えない胸も、直に見ると思いの外はっきりとした谷間があった。民喜はドキッとし、思わず周りを見回した。他の部員たちは少し離れたところで談笑している。

高鳴る鼓動を抑えながら、民喜は改めて隣でかがみこんでいる明日香の方をそっと見つめた。白地に桃色の模様が入った下着に包まれた、明日香の柔らかそうな乳房が目に飛び込んでくる。胸の付け根付近には、小さな2つのほくろがあった。民喜はその小さなほくろも大切に記憶しようとした。

色の薄い肌から、うっすらと静脈が透けて見える。彼女の呼吸に合わせて、丸い乳房が微かに上下している。明日香の呼吸に自分の呼吸が重なり、彼女の心臓の鼓動に自分の鼓動まで重なってしまいそうに感じた。

それは数秒のことであったか、それとももう少し長かったのか。明日香が立ち上がりそうになったので、民喜は慌てて視線を逸らした。

 スマホを枕元に置いて、仰向けになる。窓の外から虫の鳴き声が聴こえてくる。

 彼女の丸い乳房を頭に思い描く中で、民喜はふと、「明日香さんのこの胸元のほくろは、世界中で自分だけが知っているほくろであってほしい」

と思った。強烈に、そう思った。この感情は、民喜が初めて経験する種類のものだった。

 

 

明け方、夢の中に明日香が出てきた。

少し離れたところに、彼女は立っていた。桃色の刺繍が入った薄いシーツのようなものを体にまとっている。シーツの下には何も着ておらず、裸のようだった。

「明日香さん」

 遠慮がちに声をかけると、彼女は小さく手を振ってくれた。

 意を決して彼女の近くまで歩いてゆく。シーツの隙間からのぞく彼女の胸元には、ちゃんと小さなほくろがあった。

 明日香の目の前にたどりつく。民喜は恐る恐る、彼女のかぼそい左肩に手をかけた。すると彼女の体を覆うシーツが足元へすべり落ちた。

目を伏せていた彼女は顔を上げ、まっすぐに民喜の目を見つめた。

体中に電流が走ったように感じた次の瞬間、鮮やかな桜のトンネルが民喜の全身を覆った。……

ハッとして、目を覚ます。薄暗い天井を見つめながら、民喜はしばらく放心したようにジッと横になっていた。

どこかから、澄んだ虫の声が聞こえてくる。心臓がドクドクと高鳴っている。背中と腰の辺りが汗で湿っているのが分かる。しかし何かあたたかな、充実したような感覚が民喜の胸の内を満たしていた。

それから民喜はふと思い出したように立ち上がり、替えの下着を持ってそっと浴室へ向かった。

 

 

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作者:鈴木太緒(すずき・たお)

   岩手県花巻市在住。猫3匹と同居。

お問い合わせ:neanderthal.no.asa@gmail.com