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 眠れない日が続く。昼夜逆転どころか、ここ数日、昼も夜も十分に眠ることができなくなっている。ウトウトとしたかと思ったら、すぐに短時間で目が覚めてしまう。

 定期演奏会を休んでしまったことの衝撃が民喜を打ちのめしていた。

布団からどうにか起き上がっても、何をする気も起こらない。

何をするにつけ、

(自分なんて……)

と自分を激しく卑下する気持ちが生じてきてしまう。パソコンを開いてネットの記事を読んだり、お笑い動画を観たりする気も起らない。

食べているものと言えば、非常時のために買い置きしておいたカップラーメンだけ。それもあと残り1個となっていた。

 そう言えば、山口凌空からラインのメッセージが届いていた気がする。しかし既読にすることもせず、放置したままになっていた。

 定演を欠席して以来、民喜はスマホを自分の目につかないところに置くようになっていた。中田悠や妙中真美からまた電話がかかってきたら、と思うと怖かった。

その上、部員たちがラインで自分の悪口を言い合っているのではないか、という疑念が民喜を苦しめ始めていた。自分の悪口を言う専用のライングループが立ち上がっていて、そこで自分に対するありとあらゆる誹謗中傷が送受信されているのではないか……?

まさか。いやでも、もしかして……?

そう思うと、胸が苦しくなって居たたまれない気持ちになる。

 それでも時折スマホを手に取ってみるのは、明日香から何かメッセージが届いているかもしれない、と思うからだった。彼女の存在と、今週末に駿と将人が東京に来てくれること――それが、いまの自分の心の拠り所だった。

 

 最後のカップ麺を食べ終えた民喜は、缶酎ハイを取りに台所へと向かった。冷蔵庫の扉を開けようとしたとき、足元に置かれた段ボールに何か赤黒い物体が入っているのが見えた。

顔を近づいて確かめてみる。赤黒く見えたそれは、母が送ってくれたリンゴだった。

ツヤツヤと輝いていたリンゴはすっかり傷んで、見る影もなくなっていた。中央には黒い傷のようなものができ、その周囲は茶色く膿んだようになっている。皮もシワシワに縮んでしまっている。

 次の瞬間、民喜の脳裏に、内臓が飛び出たネズミの姿が浮かんだ。居住制限区域になっている実家の階段で、腹を破裂させながら死んでいたあのネズミ……。目の前の傷んだリンゴと、ネズミの死骸から飛び出す赤黒い内臓とが重なる。

「ウッ……」

民喜は思わずトイレへと駆け込んだ。……

 

 便器から顔を上げると、民喜は実家のリビングに立っていた。

ムワッとする熱気が全身に押し寄せてくる。床には書類やゴミ袋が散乱している。マスク越しに、何かが腐ったような臭いが鼻をつく。

「ウッ……」

 口元を押さえつつ、部屋の中を素早く見回す。

 棚の上にある家族写真は一つを残してすべて倒れてしまっている。いつも家族で座っていたソファーの上には動物の糞が点々と散らばっている。

「……!」

声にならない叫び声を上げつつ、民喜はリビングから逃げ出した。自分の部屋がある二階へ避難しようとする。が、二階へ続く階段の上には、内臓の飛び出たネズミの死体が転がっている――。

 オエッ。

便器の中に嘔吐物が飛び散る。眼前のネズミの死体は瞬時に消え去り、民喜の意識は強制的に便器の前へと引き戻された。

オエーッ。さらに大量の嘔吐物が飛び散る。未消化なままのカップ麺が次々と口の中に込み上がってくる。涎が糸を引いて口から滴り、目からポロポロ涙がこぼれ落ちる。

胃の中の物をすべて出してしまうと、ようやく吐き気は収まった。嘔吐物を水で流し、民喜はそのまま便器の下にうずくまった。

 苦しい。本当にこれが、現実なのだろうか。何か悪い夢の中に入り込んでしまっているんじゃないだろうか……。

みぞおちの上に手を置きつつ、民喜はぼんやりとした意識の中で考えていた。

すると真っ暗な空間にふと、原民喜の詩の一節が浮かんできた。

《パット剥ギトッテシマッタ アトノセカイ》。

パッと剥ぎ取ってしまったあとの世界――。今から70年前、原民喜は原爆が投下された直後の広島の町を歩きながら、眼前に広がる光景をそう形容した。

 

ギラギラノ破片ヤ

灰白色ノ燃エガラガ

ヒロビロトシタ パノラマノヨウニ

アカクヤケタダレタ ニンゲンノ死体ノキミョウナリズム

スベテアッタコトカ アリエタコトナノカ

パット剥ギトッテシマッタ アトノセカイ …

    

パッと剥ぎ取ってしまったあとの世界。自分もそのような世界に突き落とされてしまったのだろうか……?

あの日以来、世界はすっかりその表情を変えていた。

慣れ親しんでいた世界はパッと剥ぎ取られてしまったように表情を変え、そしてその剥ぎ取られた傷口から「放射能」というよく分からぬものが勢いよく噴き出し続けていた。この「放射能」というよく分からぬものは、民喜が大切にしていたものを容赦なく傷つけていった。大切な色々なものをズタズタに引き裂き、眼前から失わせていった。

みんな、夢であってほしかった。いま目の前にある暗く陰惨なものどもはみんな幻で。目を覚ますと、事故が起こる前のあの家に自分は戻っていて……。

避難指示もなく、放射能の不安もない。両親の離婚もない。父と母と咲喜と一緒に。駿も将人も一緒に。すべてが調和していたあの日々に――。

しかし、それが不可能であることは自分でよく分かっていた。これが、現実なのだろう。目の前のこの暗い現実が……。

「死」という言葉が民喜の頭をよぎる。

このまま生きていてもこれから先、陰惨なものしか待ち受けていないのではないか、と思う。先のことを考えるほどに、俺らは暗く惨めになってゆく。いっそすべてを投げ出したら楽になるのかもしれない。

 

この先

帰還困難区域につき

通行止め 

 

 

フッと意識が遠のきそうになった民喜は目を閉じ、トイレの便器にもたれかかった。そのとき、強烈な渇きが自分の全身を貫いた。

「水を……」

民喜は涸れた声で呟いた。しかしもちろん、水を差しだしてくれる者はいなかった。

床に飛び散った嘔吐物を片付けることもなく、洗面所で口と手だけすすいで民喜はリビングに戻った。

スマホを手に取ってみる。画面が真っ暗なままで、電源が入らない。バッテリーが切れてしまったのだろう。

充電をせずに、民喜はそのままスマホを床の上に置いた。

 

 

*引用:『夏の花・心願の国』(新潮文庫、1973年、159頁)

 

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作者:鈴木太緒(すずき・たお)

   岩手県花巻市在住。猫3匹と同居。

お問い合わせ:neanderthal.no.asa@gmail.com