4、

「明日香さん、この絵」

幾分心が落ち着いてから、民喜はカバンの中から絵を取り出した。

「ネアンデルタール人の絵なんだけど……」

 明日香は目の前に差し出された絵を見つめながら、事情がよく呑み込めない様子で、

「えっ、誰の絵?」

 と聞き返した。

「ネアンデルタール人の絵」

「ネアンデルタール人が描いた絵?」

「いや、描いたのは僕」

「民喜君の絵?」

 明日香は絵を両手で受け取り、

「あっ、民喜君が描いたネアンデルタール人の絵なの? ごめん。変なこと言っちゃって」

恥ずかしそうに笑って、

「へーっ、民喜君、絵を描くんだ」

 絵の方に顔を近づけた。

朝の光の中に立つネアンデルタール人の家族の絵。真ん中に立つネアンデルタール人の女の子は、何かを大切に守るようにそっと胸の上に手を置いている。女性の口元は、何かを自分に語りかけようとしている……。

 

 

「ネアンデルタール人って、どんな人たちだったっけ」

「僕たちとはまた別の人類で……。近い関係なんだけど、別の人類。大昔に絶滅しちゃったみたい」

「あっ、別の人類なんだ。でもあんまり見た目も私たちと変わんないし……。すごく優しい顔をしてるね」

 絵の中の三人をジッと見つめて言った。

「民喜君の絵のタッチも優しいね。とてもきれいな絵」

「ありがとう」

 民喜は照れくさそうに礼を言った。

「一応、タイトルは『ネアンデルタールの朝』って付けてるんだけど……。描いたのはもうだいぶ前で。4年前、高1の時に描いた絵なんだ。ちょうど、震災の前の日に」

「震災の前の日?」

「うん。震災の前の日に、夢を見たんだ。朝の光の中、ネアンデルタール人たちが自分の目の前に立って、微笑んでる夢だったんだけど……。微笑む彼らを目の前にしていると、僕の全身も眩しい光に包まれたようになって……。で、パッと目が覚めた。そしたら、夢の続きのように、カーテンの隙間から差し込む朝の光が眩しく輝いてた。何だか分かんないけどすっごく感動して、胸が熱くなって。それで思わず絵にしてみたのが、この絵なんだけど……」

「だから『ネアンデルタールの朝』なんだ。民喜君にとって、大切な絵なんだね」

 明日香はそう言って微笑んだ。彼女がこの絵のことを受け止めてくれていることが、有り難かった。

民喜は下を向いて、

「でも、その次の日に、震災と原発事故が起こっちゃったから……。机の引き出しにしまったまま、忘れちゃってたんだ。この絵のこと。ずっと、この4年間」

 彼女が自分の横顔を見つめているのを感じる。

「自分でもよく分がんねえんだけど。夢のことも、この絵のことも、忘れちゃってた。記憶喪失みたいに」

 自分の足元を見つめつつ、懸命に言葉を紡ぎ出そうとする。

「原発事故の後、色々なことがあって……。色々なことがあり過ぎて……。その色々なことが、事故の前のことをあんまり思い出せないようにしてたのかもしれねえけども」

 そう言った後、つい福島の方言が出て来てしまったことに気付き、民喜は恥ずかしくなった。顔を上げ、明日香の方をチラッと見遣る。しかし彼女は真剣な表情で聞いてくれていた。民喜は軽く咳払いをし、

「それで、あの、今年の春、本館前の芝生で谷川俊太郎の話をしたの、覚えてる?」

 明日香は即座に、

「うん、覚えてる」

 と答えた。

「そのとき、明日香さん、谷川俊太郎作詩の『朝』っていう曲を歌ってくれたよね。あの桜並木で……」

「うん、歌った」

 明日香は目を伏せ、恥ずかしそうに微笑んだ。

 

また朝が来てぼくは生きていた ……

 

彼女の声がよみがえってくる。あの桜並木で、彼女は自分に『朝』を歌ってくれたのだ。懸命に、涙を流しながら――。

「明日香さんの歌声を聴いた時、ホントに感動した。胸が熱くなった。それで、何かを思い出しそうになったんだ……。でもその瞬間ははっきりとは思い出せなかった。その後、家に帰って谷川俊太郎さんの『かなしみ』っていう詩を読んで……。やっぱり何かを思い出しそうになって……」

自分の内にある想いを何とか言葉にしようとする。

 

あの青い空の波の音が聞えるあたりに

何かとんでもないおとし物を

僕はしてきてしまったらしい ……

 

「俺は《何かとんでもないおとし物》をしてきたんじゃねえかと思って、何か心がザワザワして……。そんとき、明日香さんの歌声がよみがえってきて、それで、思い出したんだ。いま話した夢のこと、あの朝のこと……そう! 『ネアンデルタールの朝』のこと。そしてこの絵を家の引き出しに入れっぱなしだったこと。その他にも、色んな大切なこと……」

 民喜はフーッとゆっくりと息を吐いた。

「それで、どうしても、この絵を取り戻しに行きたくなって。行かなきゃいけないって気持ちになって……。この夏休みに実際、取りに行ってきたんだ。家のある辺りはまだ居住制限区域になってて日中しか入れないんだけど……。行って来たんだ、4年ぶりに」

 明日香の顔を見つめる。彼女と目が合う。

「明日香さんのおかげで、取り戻すことができたんだ」

「いや、そんな、私は何も」

 民喜は言葉を被せるようにして、

「いやホント、明日香さんのおかげなんだ。それで、明日香さんにぜひこの絵、見てもらいたいと思って……」

 明日香はコクンと頷いて、

「ありがとう」

 と言った。話している間に民喜の内にまた熱いものが込み上がってきた。

「この夏、辛い時はいつも、明日香さんの歌声を思い出してた。そしたら、前を向いて歩いていこう、って気持ちになれた」

と伝えて民喜は下を向いた。これ以上話すと、涙が出て来てしまいそうだった。

数秒の沈黙の後、

「ありがとう」

 すぐ耳元で、明日香の声がした。

民喜はコホンと小さく咳払いをして顔を上げた。いつの間にか太陽は沈んでしまっていた。しばらく無言のまま、紅藤色に染まった公園を二人で見つめる。

体全体に、隣に座る彼女のぬくもりを感じる。そのぬくもりは、今度は非常に安らかなものとして感じられた。

暖かい、と思う。

暖かい。

できれば、ずっとこのまま、二人でこうして座っていたい……。

 

「絵を見てくれて、ありがとう」

明日香から絵を受け取ろうとした民喜は、ハッとして絵を覗き込んだ。絵の中の女性の口元が微かに動いた気がした。

「あっ、そうだ!」

明日香の顔を見つめて、

「ネアンデルタール人の夢を見た時、声が聴こえたんだ。『善い』って声が」

「善い……?」

 明日香が呟いた。

「そう。彼らが自分に向かって、声にならない声で、『善い』って言っているのが聴こえて……。そしたら胸の奥の方から熱いものが込み上げて来て。涙がポロポロ溢れてきて。本当に嬉しくて、目が覚めてからも、その感動がずっと続いて……。その瞬間を絵にしてみたのが、この『ネアンデルタールの朝』だったんだ」

「そうなんだ」

 ポツリとそう答えた彼女はそれ以上、何も言わなかった。

しばらく沈黙が続いた後、

…………善い

明日香は再びそう呟いた。すると彼女の目から一粒の涙がこぼれ落ちた。薄明の中、涙は一瞬星のように瞬いて、消えた。

 

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作者:鈴木太緒(すずき・たお)

   岩手県花巻市在住。猫3匹と同居。

お問い合わせ:neanderthal.no.asa@gmail.com