3、

いわき市の実家に戻ったのは、夕方の5時頃だった。

「ずいぶん早かったわね」

 台所から母が顔を出す。民喜は頷きながら、車のキーを返した。咲喜は遊びに出かけているのか、いなかった。

「駿ちゃんと将人ちゃん元気だった?」

母の言葉に民喜は、

「うん……」

とだけ答えた。母は一瞬何かを言いたそうな表情を浮かべたが、それ以上何も言わなかった。

「駿と将人と会ってくる」――母にはそう伝えて今朝、民喜は家を出た。駿と将人と会うというのはもちろん嘘だった。二人と会う約束しているのは実際に明後日だ。両親から借りた車を運転し、民喜は故郷の町へと向かった。

あの町を訪ねることを母に伝えても、きっと反対するに決まっていた。母には嘘をついて申し訳ないが、今日のことは内緒にしておかねばならない。いわき市から故郷の町まで、民喜の運転で1時間ほどかかった。

 カバンを和室に置いて、洗面所に向かう。鏡に映った自分の顔を見つめる。ひどく疲れた表情をしていた。

 浴室に入り、服を脱ぐ。一日分の汗を吸い込んだTシャツとパンツを洗濯機に放り込む。シャワーを浴びると民喜はようやく少しホッとした気持ちになった。頭から足の先まで石鹸でゴシゴシと入念に洗う。洗いながらふと、自分は今日どれくらい被ばくしたのだろう、と思う。……

 

その不可思議な祝福の時は一瞬のことであったのかもしれない。もしくは数十秒のことだったのかもしれない。あるいは、数分のことであったのかもしれない。時間の感覚は失われ、ただ、いまという瞬間がここに充満していた。

民喜は「ネアンデルタールの朝」を慎重にクリアファイルの中にしまった。絵が入ったファイルを大切に胸に抱きながら、部屋を出る。一歩一歩、慎重に階段を下りてゆく。視界の隅を横切って行ったネズミの死骸はさっきよりは恐ろしくなかった。

玄関の戸に鍵をかけ、車に乗り込む。車に乗った瞬間、民喜はドッと疲れを感じた。クリアファイルとカバンを助手席に置いて、運転席にもたれかかる。腰の骨の辺りにズキズキとした鈍い痛みを感じる。

思い出したように車のエンジンをかけ、エアコンの冷房を最大にする。顔にねっとりとはり付く暑苦しい不織布マスクを取り外す。Tシャツもびっしょり汗に濡れていた。

のどの渇きを感じてペットボトルを手に取ったが中は空だった。空のペットボトルを意味もなく数回カラカラと振る。

民喜は再びクリアファイルを手に取り、絵がその中に確かに入っていることを確認してからカバンの中にしまった。

 

車を発進させてからすぐに、道路を横切ろうとしているイノシシの親子と遭遇した。

「こんな町中にイノシシが……?」

イノシシたちとの距離はおよそ100メートルくらいか。親イノシシの側にいる2匹の子どもはまだうり坊の姿をしている。

無人となった町はいまや野生の動物たちの棲み処となってしまっているのだろうか……?

 だんだんと車とイノシシの距離が近づいてゆく。イノシシの親子は道路を何故だかなかなか道路を渡り切ろうとしない。互いの距離が10メートルほどになったとき、親イノシシが突然、道路の真ん中に立ち止まり、民喜の方に向き直った。

思わずキュッとブレーキを踏む。イノシシと目が合う。今まで見たことがないくらい大きいイノシシだった。体長は150センチ近くあるかもしれない。イノシシの鋭い眼差しを前に民喜は慌てて目を逸らした。

このまま突進してきたら、と思うと恐怖を感じる。バックで引き返そうか。それとも余計なことをせず、しばらくジッとしているべきか。

手の平は汗をかき、脇の下には冷たい汗がにじんでくる。腰の骨の辺りがまたジンジンと痛くなってくる。

しばらくの無言の対面の後、親イノシシはクルリと体の向きを変え、再び道路を横断し始めた。そうして子どもたちをひき連れて住宅の間にある空き地へと消えて行った。

 

 シャワーから上がった民喜は台所へと向かった。冷蔵庫からよく冷えた麦茶を取り出してコップに注ぐ。ゴクゴクと一気に飲み干し、

「ちょっと疲れたから横になる」

夕食の準備をする母にそう言って、リビングの横の和室で横になった。部屋の中は蒸し暑かったが、布団の上に寝転ぶと民喜はすぐに眠りに落ちて行った。

 

夢の中で、民喜は車で再びあの町へと向かっていた。フロントガラス越しに見える景色は妙に薄暗い。

自分の家に到着する。車から降りるが、依然として目に映る景色は薄暗い。何か暗い雲のようなものが辺り一面を覆っているようだった。胸の内に不吉な予感のようなものがふくらんでゆく。

敷地内に漂っている灰色の靄にガイガーカウンターを近づけてみる。が、まるで同じ極の磁石を近づけたかのようにはねのけられてしまった。家の壁面を覆っている靄に近づけても、やはり勢いよくはねのけられてしまう。

民喜はふと、どこかから何者かに見張られているように感じた。周りを見回す――が、誰の姿も見当たらない。でも確かに、自分は何者かに凝視されているように感じる。

見ると、足元に樹の洞がある。中は真っ暗で、洞の周囲には濁った油のようなものがこびりついている。

次の瞬間、突然、洞の中から手のようなものが飛び出してきた。驚いて後ろにのけぞる。幾本もの手が洞の中に民喜を引き込もうとしている。

必死で抵抗しながら、民喜はすぐ後ろに何者かの気配を感じた。振り向くとそこには自分を睨みつける巨大なイノシシの頭があった。

 

…………消えろ

 

 

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作者:鈴木太緒(すずき・たお)

   岩手県花巻市在住。猫3匹と同居。

お問い合わせ:neanderthal.no.asa@gmail.com