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月明かりの下、一人の男が前方を歩いている。時にフラフラと足がよろめく感じになるのは酔っ払っているからかもしれない。ヨレヨレの着古したオーバーを羽織り、頭には灰色のハンチングをかぶっている。

民喜はしばらく前から、この男性のあとにつき従っていた。

二人で歩き続けているのは、線路脇の狭い道だった。周囲の景色から何となく、吉祥寺の辺りではないかと感じる。

男は民喜が後ろからついてきているのに気づいているのか、気づいていないのか。一切後ろを振り返ることはない。少し前かがみの恰好で、無言のまま歩き続けている。

程なくして、民喜は目の前を歩いている男性が原民喜であることに気付いた。後ろ姿しか見えないが、彼が原民喜であることは間違いなさそうだった。

吉祥寺を通り過ぎても、彼は足を止めることなくさらに前へ歩き続けた。どこまで行くつもりなのだろう?

何だかひどく寒い。体がどんどんと冷えてくる。

 寒さとともに、民喜は自分の体が徐々に重たくなってくるのを感じていた。周囲の風景もその重さと呼応するように暗くなってゆく。

周囲の風景はやがてその輪郭を失って暗闇の中に溶け出してゆき、遂には原民喜のぼんやりとした後ろ姿しか見えなくなった。

何なのだろう、一体……。

ザワザワ……と胸騒ぎがしてくる。

 すると突然、原民喜はフラフラとよろめきながら土手を上り始めた。遅れないように民喜は急いであとを追った。

 

土手の上には、西荻窪から吉祥寺へ至る線路が続いていた。月明かりがぼんやりと足元のレールを照らし出している。先の方は深い闇に包まれていてよく見えない。

 彼は民喜を背にしばらく前方を見つめた後、ゆっくりと線路の上に身を横たえた。淡々とした所作で、まるで何か実務的な用事を済ますかのごとくだった。

レールを枕にして横たわる彼を見たとき、民喜は彼が鉄道自殺をしたことを思い起こした。

これから彼は死ぬつもりなんだ、と思う。と同時に、自分も彼と同じように死ぬつもりであったことに気付いた。そのつもりで、さっきから自分は彼のあとを追っていたのか――。

目に見えない強烈な力に引き込まれるようにして、民喜は線路の上に身を横たえた。後頭部にレールのヒヤリと冷たい感触が伝わる。枕にするには硬すぎるが仕方がない。もうすぐ楽になるのだ、と思う。もうすぐ楽になる、すべてのことが……。

 間もなく、後頭部にあてがったレールからジリジリと微かな振動が伝わってきた。前方の西荻窪の方面から電車が近づいてきているのが分かった。

一瞬、民喜の内に迷いのようなものが生じた。

これでよかったのだろうか?

本当に、これでよかったのだろうか?

そう言えば、明々後日、駿と将人が東京まで来てくれることを思い出した。自分には、大切な約束があったのだ。

そう思うと、だんだんと後悔が押し寄せて来た。しかし体は金縛りにあったようになって、まったく動かすことができない。激しい恐怖に駆られるが、のども締め付けられたようになって声が出ない。

レールの振動が激しくなってくる。思わず隣に横たわる彼の方に顔を向ける。

(あっ!)

隣で目を瞑っているのは原民喜ではなく、自分自身であることに気づいた。

電車の鋭い警笛が鳴る。

(失敗した!)

と思った次の瞬間、世界を引き裂く轟音と共に、雷が自分の上を通過した。グシャッと頭蓋骨が砕ける音がする。視界を失う中で、自分の体が人形のように引きちぎられてゆくのが分かった。

車輪にしばらくひきずられた後、ポンと外に放り出される。スローモーションのようにゆっくりと、切断された自分の下半身が血しぶきを上げながら宙を飛んでいるのが見える。

ピーンポーン。

すぐそばでかん高い叫び声が聞こえた。

声がした方を見遣ると、明日香が線路脇の道に立っていた。口に手を当てて、こちらを見上げながら叫んでいる。

明日香さん!

こんな惨めな姿を見せて申し訳ない――と恥ずかしく思う。と同時に、もう彼女をこの手で抱きしめることは永久にできないのだ、ということに思い至る。

永久に……?

内臓が引きちぎられるような後悔が民喜を襲った。……

 

ピーンポーン。

ハッとして目を開ける。明日香の姿は消え失せ、薄暗闇が目の前を覆っている。

ここはどこだ?

頭上にぼんやりと白くて丸いものが見える。

電灯、か。

ということは、ここは俺の部屋……?

民喜は急いでお腹周りをさすった。切断されず、ちゃんとつながっている。両腕や両足も触ってみる。バラバラにならずに、しっかりとつながっている……!

民喜はフーッと息を吐き、放心したように天井の電灯を見つめた。

心臓は激しく脈打ち、全身にぐっしょりと汗をかいている。腰の骨の辺りもジンジンと痛い。

後頭部にはレールの硬く冷たい感触がありありと残っている。自分の体が無残に引きちぎられてゆく感覚も、下半身が宙を飛ぶ様子も、そして明日香さんのあの叫び声も……。

もう一度体のあちこちをさすり、自分がいまいるのは線路の上ではなく、布団の上であることを確認する。

ピーンポーン。

玄関のチャイムが鳴った。チャイムのかん高い音に民喜はビクッとして身を起こした。そう言えば、さっきから玄関のチャイムが鳴っていたかもしれないことに思い至る。

ドアの外で、誰かが待っている気配がする。上半身を起こしたまま、ジッと息を潜める。とてもいまはドアを開けて応対できるような状況ではなかった。何十秒か後、ビニールが擦れるような音がし、何かがドアにコンと軽くぶつかる音がした。階段を下りてゆく足音が微かに聞こえ、シンとした静寂が辺りを覆った。

誰かが立ち去ったのを確認すると、民喜はまた布団に横になった。身を横たえた途端、寒気がした。汗をかいているけれど、体の芯の方は冷え切っているようだった。

目を瞑る――血しぶきを上げながら飛んでゆく自分の下半身と、口に手を当てて絶叫している明日香の顔が浮かんでくる。

民喜は深く息を吐き出した。とにかく、夢で良かった、と思う。あれが、現実でなくて、本当に良かった……。

眼鏡をかけ、ゆっくりと立ち上がり、玄関の方に向かう。ドアを少しだけ開けて、外の様子をそっと伺う。すると、ドアノブにビニール袋がつり下げられているのに気付いた。ビニールの隙間からはポカリスエットとバナナが顔を覗かせていた。

ビニール袋を手に取って、そっとドアを締める。袋の中には色々な物が入っていて、ズッシリと重たかった。

中を覗いてみる。ポカリスエットとバナナの他に、リンゴ、果肉入りヨーグルト、果肉入りゼリー、市販のサンドウィッチなどが入っている。四角いタッパの中にはタマゴ野菜雑炊も入っていた。作ってまだそれほど時間が経っていないのか、ほのかに温かい。

こんなにたくさんの差し入れを、手作りの料理まで……。一体誰が?

民喜はまたドアを開き、顔を出して辺りを見回してみた。一瞬、微かに花のような香りがした気がした。

明日香さん?

 いや、でもまさか。

明日香さんがこんなところに来るはずがない。それに彼女はこのアパートの場所を知らないはずだった。

差し入れの主が誰なのか分からぬままに、民喜は早速ポカリスエットのキャップを開けてコップに注いだ。躊躇なく、一気に飲み干す。体中に水分と糖分とが沁みわたってゆくのを感じる。ずいぶんと、喉が渇いていたようだった。もう一杯コップに注ぎ、ゴクゴクと飲み干す。

改めてビニールの中の差し入れを見つめる。誰が差し入れてくれたのか分からないけれど、

(助かった……)

と思う。もう部屋には何も食べる物が残っていなかった。

リンゴを手に取ってみる。シワシワではない、赤く色づいた新鮮なリンゴ――。鼻に近づけて香りを嗅いでみる。リンゴの甘い香りが鼻をくすぐる。何故だか分からないけれど、目に涙が込み上がってきた。

しばらく両手で大切に包み込んだ後、民喜はリンゴをそっと机の上に置いた。

 

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作者:鈴木太緒(すずき・たお)

   岩手県花巻市在住。猫3匹と同居。

お問い合わせ:neanderthal.no.asa@gmail.com