4、

並木道を後にし、民喜は海岸の方へ向かった。

フロントガラスから見える空は快晴だ。青空の中に雲はほとんど見当たらない。道路の左右に続く雑木林も明るい緑を輝かせている。何の変わりもない、民喜がよく知っている故郷の風景である。

あちこちで「除染作業中」という幟が風にはためている。これらの風景の中に放射能が潜んでいることを民喜はいまだに実感できなかった。ペットボトルに手を伸ばし、お茶を一口、口に含む。

交差点を右折すると、看板が立っていた。

 

《走行注意 町内全域で陥没段差箇所があります。また、野生化した動物が出没する恐れがあります。道路状況をよく確認して注意して走行してください》

 

 車を停めて、書かれた文章を何度か読み返す。が、内容をうまく理解することができない。

「陥没段差箇所」

「野生化した動物」

聞き慣れない言葉を、民喜は胸の内で何度か呟いた。

ゆるやかな坂道を下って海岸の近くまで行くと、景色が一変した。思わず息を飲む。そこに広がっていたのは、まるで震災直後で時が止まっているかのような光景だった。

駅前の商店街の建物の1階部は破壊されたまま、道路は所々陥没し、電柱も倒れたり折れ曲がったりしている。それらは何の修復もなされてはおらず、ただロープが張られ、赤い三角コーンが並べられているだけ。放射能の影響でいまだほとんど工事をすることができていないのだろうか。

一台の車が仰向けにひっくり返っている。民喜は反射的に車の中に人がいないか確認しようとした。もちろん、車の中は無人だった。

それらの光景を眺めながら、異様な緊張状態に襲われ始める。背中と首筋の筋肉が木の板のように硬くなってゆくのが分かった。

 駅前の広場に到着する。が、あまりに風景が変わってしまっているので、ここが本当にそこであるのかどうか、確信が持てない。見慣れた赤い屋根の駅舎は見当たらず、目の前にあるのはホームの跡だけだ。

けれども目を凝らしている内に、すぐ向こうの草地の下にレールが埋もれていることに気づいた。やはりここは、あの駅舎前のようだった。

車を停め、フロントガラス越しにかつて駅があったはずの場所を見つめる。

ガラガラ……。

どこかから、建物解体の工事の音が聞こえてくる。目の前の光景は、まるでパソコンの画面を通して見ているかのように現実味がなかった。

線路の向こう側にあった漁港もすべて更地になり、フレコンバックの仮置き場になっていた。汚染土が入った黒い袋が整然と積み上げられており、その塊は海岸線に沿って遠くまで延々と続いている。そしてそれら黒い山の向こうに、青い海が寂し気に佇んでいる。

民喜は窓を開け、向こうの海から聴こえてくるはずの波の音に耳を澄まそうとした。……

 

別れ際、明日香は谷川俊太郎の詩集を貸してくれた。

「いいの?」

 彼女は頷いて、

「うん、大丈夫。もう何度も読んでるし。さっき歌った『朝』も収録されてるから……。よかったら、また時間あるときに読んでみて」

「うん、ありがとう。読んでみる」

 しばらくの沈黙の後、

「じゃ、また」

 民喜は遠慮がちに手を上げた。

「うん、また」

 明日香も遠慮がちに手を上げ、バス停の方角に歩き始めた。

 彼女の後姿を見つめる。ピンクのカーディガンの下から伸びる、スラリとしたか細い脚。柔らかな長い髪が風に揺れている。

数メートルほど行ったところで、明日香はチラッと民喜の方を振り返った。手を振ると、彼女も恥ずかしそうに手を振った。

 

 アパートに戻ると民喜は早速、カバンから明日香から借りた本を取り出した。ページを開いて、そっと匂いを嗅いでみる。紙の匂いに交じって、微かに彼女の香りがしたような気がした。

目を瞑る。胸の震えとともに、桜並木を背景に『朝』を歌う明日香の姿が浮かんでくる。民喜は胸の上で本をギュッと抱きしめた。

しばらくそのままの姿勢で立ち続けた後、民喜は床に腰を下ろした。転がっていたクッションを膝の上にのせ、詩集を始めから読み始めてみる。詩集を読むということ自体、民喜にとって初めての経験だった。するとすぐに『かなしみ』というタイトルが目に留まった。

 

あの青い空の波の音が聞えるあたりに

何かとんでもないおとし物を

僕はしてきてしまったらしい ……

 

詩の前半部を読んだ民喜はハッとしたような気持になった。

まるで親しい誰かに、後ろから声をかけられたような――。思わず顔を上げて後ろを振り向く。もちろん、誰もいない。

窓を見つめながら、民喜はいつしか自分の住んでいた町を思い出していた。

事故が起こって以来、一度も帰ることができていないあの町――。町の様子はどうなっているんだろう?

ロウソク岩があるあの浜の様子が脳裏に浮かぶ。高校の頃は、毎日のように行っていた、あの海。

すぐ耳もとに波の音がよみがえってくる。海岸に押し寄せ、引いてゆく波の音……。

家は、どうなってるんだろう……?

瞼の裏に、家のリビングの光景が浮かぶ。

両親は時々家に必要な物を取りに行っているようだったが、この4年間、民喜と咲喜が一緒に行くことは決して容認してくれなかった。

民喜は前を向いて再び『かなしみ』を見つめた。

心の奥の方でまた何かが動いた。何ものかが心の深いところから立ち上がろうとしているのを感じる。

目を瞑ると、すぐ耳元で明日香の歌声がよみがえってきた。

 

また朝が来てぼくは生きていた ……

 

そのとき、民喜の頭に、

ネアンデルタールの朝

という言葉が浮かんだ。

瞬間、地中に埋まった巨大な芋が引き抜かれたように、埋もれていた記憶が一斉に意識の上へと引き出された。記憶の束がズルズルと芋づる式につながって、民喜の眼前に勢いよく引き出されていった。……

 

 

 

*引用:谷川俊太郎『かなしみ』(『谷川俊太郎詩選集1』所収、集英社文庫、2005年、15頁)

 

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作者:鈴木太緒(すずき・たお)

   岩手県花巻市在住。猫3匹と同居。

お問い合わせ:neanderthal.no.asa@gmail.com