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1、

「民喜。咲喜とお父さん、家に戻るから」

 母が声をかけてきた。

「母さんは?」

「私はまだしばらくこっちにいる」

「了解」

 民喜は母の顔を見つめて頷いた。……

 朝食後に受けた検診で、明日退院できることを告げられた。血圧は問題なし、他の検査結果も特に異常はないということだった。

医者はパソコンの画面を見ながら、入院に至るまでの経緯を簡単に説明した。歩道で立ちくらみを起こして倒れ――いわゆる脳貧血の症状――、救急車で病院まで運ばれたこと。症状自体は一過性のもので大した問題はなかったが、免疫力と血圧の低下が認められたので大事を取ってそのまま入院の措置を取ったこと。

民喜は歩道で倒れたところまでは何となく記憶していたが、救急車で運ばれてからのことはまったく覚えていなかった。

「血圧ももう正常の値に戻っているし。まあ、しばらく様子を見ましょう」

医者は画面から目を離し、民喜の顔を見つめた。

「えー、あとですね。これとは別に近々、心療内科の方も受診してください」

「心療内科?」

医者の顔を見つめ返す。

「えー、脳貧血とは別にですね、一時的に、その種の症状が見られましたので。今朝は、大丈夫そうですけどね。そちらはまた改めて、詳しく診てもらいましょう」

 医者はキーボードに素早く文字を打ち込み、

「紹介状書きますのでね。お体の方は、まずは大丈夫ですよ」

「はあ」

事情がよく呑み込めないまま返事をする。

「今後は十分な睡眠、バランスの取れた食事を心がけてください。はい、まずはいいですよ。お大事に」……

 ベッド脇の椅子に座る民喜のもとに咲喜と父がやってきた。

「明日退院できるって。よかったね」

 咲喜が明るい声で言った。咲喜は今日は髪を三つ編みにはしておらず、ゴムで一つに結んでいた。

「うん」

民喜は頷いた。

「民喜、無理すんな」

父が咲喜の後ろから民喜に声をかけた。

「分かった」

 父は数秒ほど間を置いてから、

「大学のことは気にすんな。しばらくゆっくり休め」

 父の言葉の意味がはっきりとは分からないまま頷く。

「駿君と将人君にくれぐれも宜しく伝えてくれ。大学の友達にも」

「うん、分かった」

 病棟の出口まで、二人を見送ることにする。

前を歩く咲喜の後姿を見つめる。後ろで一つに結んだ妹の髪の毛はお尻の辺りまであった。夏よりもさらに髪の毛が伸びた気がする。気のせいか、身長も少し伸びているように感じる。夏に会ったときからまだそんなに日にちが経っていないはずなのだが――。

「お兄ちゃん、またね」

 出口まで来ると、咲喜はクルリと振り返り、手を挙げた。

「うん」

咲喜は上目遣いでジッと民喜の顔を見つめた後、一瞬何か迷っているような表情をし、そのままゆっくりと手を降ろした。

「咲喜、じゃ、行くか」

 父が咲喜の肩に手を置いた。咲喜は父の顔を見上げ、

「うん」

 小さな声で呟いた。咲喜が父と母に伴われて扉の外に出て行こうとしたとき、

「咲喜」

 民喜はハッとして声をかけた。振り向いた咲喜の頭上に手を伸ばす。恒例のハイタッチをうっかり忘れてしまっていた。咲喜はパッと笑顔になり、勢いよく手を挙げて民喜とハイタッチした。

「兄ちゃん、すぐに元気になるからな」

 咲喜の両頬に手を当てる。

「うん」

咲喜は民喜の両手に上から手を重ね、頷いた。

「咲喜も元気でな」

「うん」

咲喜は泣き出しそうな顔をし、そしてニッコリと微笑んだ。

 

「昨日、山口君と永井さんがお見舞いに来てくれたって言ってたけど……」

 病室に戻ると、民喜は気になっていたことを母に尋ねてみた。

「うん、そうよ。民喜がぐっすり眠ってたから、遠慮されてそのまま帰られたけど……。一昨日、お二人が民喜が道で倒れているのを見つけて、救急車を呼んでくれたのよ」

「そっか」

 イノシシ人間の大群から逃げる中、向かいの歩道から明日香が手を振っていたのを微かに覚えている。その後、体に衝撃が走って、目の前が暗くなったのだ。

そう言えば、目の前が真っ暗になってゆく中で、彼女と山口の声が聞こえた気もする。

 母はベッド脇の椅子に座った。

「民喜にラインをしたのに何日も既読にならなかったから。電話をしてもつながらないし……。不安になって大学に問い合わせたら、その週はまったく大学に来てないことが分かって。何かあったのかもと思って、急遽、午後から東京に向かってたの」

 民喜はどう答えたらよいか分からず、小さく頷いた。

「そしたら特急の中で、駿ちゃんから電話があった。民喜が調子が悪そうだから、将人ちゃんと明日様子を見に行ってきますって。ちょうど私もいま東京に向かってるって伝えた。……そしたらその30分後くらいに大学から連絡があって。民喜が救急車で病院に運ばれたって……。ホント、びっくりしたわ。頭の中が真っ白になった」

 民喜はシーツの上に視線を落とした。

「病院に駆けつけたら、民喜は点滴を受けて、ぐっすり眠ってた。脳貧血で立ちくらみを起こして倒れただけで、命に別状はないって聞いて、本当にホッとしたけど……。山口君と永井さんも一緒に付き添ってくれていたわ」

「そうだったんだ」

 明日香さんと山口は病院まで一緒に来てくれてたんだ……。

二人に申し訳ない、という想いが込み上げてくる。

「お二人には、本当に感謝だわ。民喜からもまたお礼を言っておいてね、くれぐれも……。わざわざ東京まで駆けつけてくれた駿ちゃんと将人ちゃんにも」

「うん」

視線を下に落としたまま頷く。

「ごめん、心配かけて」

「ううん、お母さんこそ、ごめんね。民喜が具合悪いこと、気づいてあげられなかった」

「いや、俺がちゃんと伝えてなかったから……」

 顔を上げ、母の顔を見つめる。母は涙ぐんだ目で民喜を見つめ返し、

「民喜、ずっと眠れてなかった? あと、ちゃんと食事も取ってなかったんじゃない?」

「確かに、ここ最近ずっと眠れてなかった。うん、食事もあんまし……」

 母は深く息を吐いて、

「民喜がそんなに大変だったこと……調子を崩してたこと……もっと早く気付いてあげていれば……」

 涙声になりながら母は呟いた。

「いや、俺が母さんにちゃんと伝えてなかったから」

 母は涙を手で拭い、首を振った。

 民喜はペットボトルの水を一口飲み、

「俺、どこが悪いの」

思い切って尋ねてみた。

「先生が心療内科を紹介するって言ってたけど……」

 母は民喜の顔を見つめ、何かを言おうとして口を開いたが、また口を閉じて黙ってしまった。

「心の病気?」

 先ほどから心にひっかかっていた言葉を口に出す。母はシーツの端の方に目を遣り、

「民喜は覚えてないと思うけど、病院に着いたとき、一時的に幻聴や幻覚の症状があったみたいなの」

 と言った。

脳裏にイノシシ人間の姿が浮かぶ。が、あの陰惨な奴らのことについては母に言い出せなかった。

「多分、一過性のものよ。睡眠不足や過労によってそういう症状が出ることもあるみたい」

母は民喜の目をまっすぐに見つめ、

「大丈夫。しばらく休養を取って、ゆっくりしたら、きっと何ともなくなるわ。最近はいいお薬も出てるみたいだし……」

 身を乗り出して、民喜の頬に手を当てた。

「それに、今日はずいぶん顔色も良くなった。お母さん、ホッとしたわ」

母は鼻をすすり、微笑んだ。

「昨日までは少し心配だったけど……」

何かを確認するようにジッと民喜の目の奥を覗き込んでから、母はゆっくりと頬から手を離した。

 

 

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作者:鈴木太緒(すずき・たお)

   岩手県花巻市在住。猫3匹と同居。

お問い合わせ:neanderthal.no.asa@gmail.com