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「彼と距離を置くようになったきっかけは、友達からの一言だった。今年の春休みに、仲のいい地元の友達が東京に遊びに来てくれて。その子は中高が一緒で、彼のことも知ってるんだけど……。思い切って、彼とのことを相談してみたの。そしたらすかさず、『それってモラハラじゃない?』って」

「モラハラ」

「うん。『それってモラハラじゃない?』……。その言葉を聞いた瞬間、真っ暗だった世界に一瞬晴れ間が見えて、光が射したように感じた。比喩じゃなく、本当にそう感じた。それまでは一体自分に何が起こっているのかよく分からなかったんだけど、その言葉をきっかけに、少しずつ自分が置かれている状況を客観視できるようになっていったんだ。つまり、これまでずっと自分が悪いって思ってたけど、それは誤解なんじゃないかって。彼のモラハラによって支配とコントロールを受けて、そう思わされるようになってたんじゃないかって、だんだんと気付くようになった」

「うん」

民喜は力強く頷いた。

「友達は、そんな男とは別れたほうがいいよって、アドバイスしてくれた。彼女を東京駅まで見送って家に戻った後、ネットでモラハラについて調べてみた。そしたら、あまりに彼と私の関係性に当てはまることが多くて……。ああ、自分はモラルハラスメントを受けてたんじゃないかって初めて気づいた。

彼はずーっと、自分が被害者のようにふるまっていたけど、ホントは逆で、私の方が、彼の被害者だったんじゃないか? ハッと目が覚めたようになって。私、今まで何をやってたんだろう。2年近くも、何やってたんだろうって。これまで、彼の問題とその責任を全部押し付けられて……。

それまでは彼のこと、誰にも相談してなかった。両親にも、叔父と叔母にも、部員のみんなにも。ずっと自分一人で抱え込んでた。でもその夜、思い切って、叔父と叔母に彼のことを相談してみた。あ、前にもお話したことあるかもしれないけど、私、ずっと中野にある母方の叔父と叔母の家に同居させてもらってるの。すると叔父も叔母もよく分かってくれて。一刻も早く彼から離れなさいってアドバイスしてくれた。彼はうちの家にも何回か来たことがあるんだけど、叔父と叔母は彼を感じのいい好青年だと思ってたみたいだから、まさかそんな一面があったなんて、ってすごく驚いたみたい。

それから何日も、どうしようか悩んだ。彼には用事があるから会えないとだけ伝えて……。別れようと思う自分と、なぜか別れられないと思う自分がいた。私がいなくなったら、彼はどうなってしまうんだろう、とか。やっぱり彼には私が必要なんじゃないか、とか。彼がやさしく振舞ってくれた時の記憶や、彼と楽しく過ごした記憶もよみがえってきた。でも、これ以上、彼の気分に振り回されて、不当に傷つけられ続けるのは嫌だ、とも思った。いろんな想いが錯綜して、混乱して、なかなか決心がつかなかった。

そんな中、大学の芝生広場で、本を読んでたの。今年の4月の初め、よく晴れて、桜がきれいだった日。そう、民喜君と会った日」

 そう言って明日香は涙ぐんだ目で民喜を見つめた。民喜はハッとして頷いた。

ああ、あの日だ……!

淡いピンクのカーディガンを着て丘のふもとに腰かけている彼女の姿が浮かぶ。

 

 

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作者:鈴木太緒(すずき・たお)

   岩手県花巻市在住。猫3匹と同居。

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