6、

ふすまを叩く音がして、パジャマ姿の咲喜が入って来た。シャワーを浴びたばかりなのか、お尻まで伸びる長い髪はまだ濡れていた。首にはバスタオルをかけている。

「絵、できた?」

 民喜はフッと我に返り、

「うん」

 と答えた。妹は壁際に並べている2枚の絵の方に顔を向けた。

「あっ、ロウソク岩!」

 絵の前に駆け寄って、

「写真かと思ったら、絵だった。すごーい」

 目を輝かせて言った。

「この絵を描いてたの?」

「んだ」

 咲喜はロウソク岩の先端を指さし、

「これは火? 燃えてるの?」

「火のようなものが、松の木に宿ってるんだ」

「ふーん。よく分からないけど、不思議な絵……」

 妹はかがみ込み、黙って熱心に絵を見つめていた。

「ロウソク岩って、なくなっちゃったんだよね」

 しばらくしてからポツリと呟いた。

「うん」

 とだけ民喜は答え、またしばし黙って妹と一緒に絵を見つめた。

「こっちの絵は何?」

 咲喜はしゃがんだまま、隣の「ネアンデルタールの朝」を指さした。

「ネアンデルタール人の絵」

「これも今日描いたの?」

「いや、これを描いたのはずっと前だ。4年前」

「ふーん。震災の前? 後?」

「震災が起こる直前だな。確か、震災の前日」

「へーっ、震災の前の日に、この絵を描いてたの? 知らなかった!」

 咲喜はいたく感動したような口調で言った。

「ネアンデルタール人って、どういう人たち?」

「俺らホモ・サピエンスとはまた別の人類だ。大昔に絶滅してしまった人たちだっぺ」

「へーっ、で、そのいなくなってしまったネアンデルタール人が、ここにいるの?」

「うん、まあ」

「こっちも、不思議な絵……」

 咲喜はやはり熱心に「ネアンデルタールの朝」の絵を眺めた後、

「この人たち、家族?」

 民喜の方を見上げて言った。

「んだ」

「やっぱり」

 妹は納得したように頷き、

「わたし、どっちの絵もすごく好き。こっちのロウソク岩も、こっちの……誰だっけ」

「ネアンデルタール人」

「そう、ネアンデルタール人の絵も」

 それぞれの絵をゆっくりと指さした。

「サンキュー」

 民喜が礼を言うと、咲喜は勢いよく立ち上がり、

「お兄ちゃんの絵、久しぶりに見た」

 嬉しそうに微笑んだ。

「そうだっけか」

「うん、前はよく見せてくれたじゃん」

「そうだっけか」

「うん、そうだよ」

 咲喜はにっこりと笑い、

「じゃあ、おやすみなさい」

そう言って和室から出て行こうとしたが、立ち止まり、また民喜の方に向き直った。

「どうした?」

黙ってうつむいていた妹は、やがて何かを決意したように顔を上げ、

「お兄ちゃんの絵を見て、思い浮かべたんだけど……」

ぱっちりとした二重の目で民喜を見つめた。これまで見せたことのないような大人びた表情をしているので、民喜はドキッとした。

「震災の日の夜、学校に避難してたときにね、ロウソクをともしたことがあったでしょ」

「そうだっけか」

「ほら、ガラスケースの中におっきいロウソクが入ってるやつ」

「ああ、ランタンか?」

「たぶんそれ。お父さんが家から持って来てて、火をつけたでしょ」

「そんなことあったべか」

「火をつけたら、周りにいた人たちも集まって来た。駿君や将人君たちもいたよ」

「そう言えば、そうだったかも……」

 咲喜に言われて、確かに、そのようなことがあったことを民喜は思い出した。

あの日の夜、避難所の体育館は停電中で真っ暗だった。父が家から持って来ていたランタンに火をともすと、瞬間、暖かな光が自分たちを照らした。父は黙ったまま、咲喜と民喜、母の肩を抱いた。しばらくすると、周りにいた人たちが一人また一人と集まって来た。自然と、ロウソクの火を囲むようにして。そこには駿の家族、将人の家族もいたように思う。ジッと肩を寄せ合って座る一人ひとりの顔を、ロウソクの明かりが静かに照らし出していた。

「オトナの人たちに怒られるかもしれないけど、わたしあの時、嬉しかった。楽しかったし、嬉しかった。ロウソク囲んで、みんなでギュッとひっついて……」

 咲喜に言われるまで、民喜はそのような瞬間があったことを忘れていた。そもそも震災と原発事故が起こって直後のことは、思い出そうとしてもうまく思い出せない部分もあった。

「そう言えば、そうだったな」

 民喜は独り言のようにして呟いた。

あの震災が起きてから、悲惨なことしか起こらなかったと思い込んでいたが、そう言えば、そのようなこともあったのか。たとえ一瞬でも、皆が一つになっていた時間が……。俺はすっかり忘れてしまっていたけれども……。

あの時、自分は16歳、妹は6歳だった。

「わたし、そのときのこと、ずっと忘れてないよ。ずっと覚えてる」

咲喜はうっすら目に涙を浮かべながら、まっすぐに民喜の目を見つめた。

妹のその言葉とまなざしに、民喜は大きなショックを受けた。文字通り、ガンと頭を殴られたかのような――

「咲喜、何だか……ずっと……すまなかったな」

 胸の奥から熱いものが込み上げてくる。

自分は逃げるようにして、東京の大学に行ってしまっていた。けれども、妹はずっとここで、ここ福島で、生活してきたのだ。自分が福島のことをなるべく考えまいとして東京で生活をしていた時にも。

民喜は手を伸ばして咲喜の小さな体にそっと触れ、それから強く抱きしめた。

事故によって家族や友人が皆バラバラにされてゆく中でも、妹はこの4年間、あの夜のことをずっと大事に覚え続けていてくれたのだ。その瞬間の記憶を、胸の内にともし続けてきてくれたのだ。

「咲喜……すまなかったな」

 咲喜のか細い背中をさすりながら、民喜は繰り返した。妹の頭から、花のようなシャンプーの香りが漂ってくる。民喜の目にも涙がにじんできた。

「すまなかったな」

「ううん……」

咲喜はそれ以上何も言わず鼻をすすり、民喜の腕の中でただ頷いていた。

 

                             (第一部 終)

 

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作者:鈴木太緒(すずき・たお)

   岩手県花巻市在住。猫3匹と同居。

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