5、

「すみません」

カウンターで洗い物をしている店員さんに声をかける。

洗い物をしていたのは今日初めて見かける子だった。最近新しくアルバイトをし始めたのかもしれない。高校生と言っても十分通用しそうな、表情にまだ幼い雰囲気を残した子だった。

「はい」

女の子がはにかんだような笑顔でこちらまでやってくると、

「コーヒー、もう一杯お願いします」

 民喜はおかわりのコーヒーを注文した。

「かしこまりました」

 女の子はお辞儀をし、

「失礼します」

机の上の伝票を手に取ってカウンターの方へ戻って行った。その様子を見届けてから、民喜はトイレに行くために立ち上がった。

店に入ってから2時間以上が経過していた。いつの間にか店内はほぼ満席になっている。人々が賑やかに会話をする中を、民喜はまるで透明な存在のようにフラフラと通り過ぎて行った。

人々が談笑する姿も、カウンターで店員が食器を洗う音も、コーヒーとカレーの匂いも、いまの自分にとっては異質なもののように思えた。いや、むしろこの人々の活気が満ちる場に自分が異質な存在なのだろうか……。

用を足し、洗面台で手を洗う。鏡に映る自分の表情の向こうに、原民喜の切羽詰まった表情が見えた気がして、ハッとした。彼の黒い目が自分を見つめたような気がした。

席に戻ると間もなく、先ほどの女の子がおかわりのコーヒーを運んできてくれた。

「お待たせしました。ブレンドのストロングです」

 小鳥のような軽やかな声で言った。

頭を下げて「どうも」と呟こうとしたが、かすれて声にならなかった。反射的にコホンと咳ばらいをする。

女の子はテーブルの端に伝票を置き、

「ごゆっくりどうぞ」

レジの方に戻っていった。

民喜は胸の上にそっと手を置き、ゆっくりと息を吸って、吐いた。

水を下さい――

先ほど読み終えた『夏の花』に記されたこの言葉が自分の胸を一杯にさせていた。

 

《河原の方では、誰か余程元気な若者らしいものの、断末魔のうめき声がする。その声は八方に木霊し、走り廻っている。「水を、水を、水を下さい、……ああ、……お母さん、……姉さん、……光ちゃん」と声は全身全霊を引裂くように迸り、「ウウ、ウウ」と苦痛に追いまくられる喘ぎが弱々しくそれに絡んでいる》

 

水ヲ下サイ》――

この言葉は、原子爆弾の熱線にさらされた人々が、その想像を絶する苦痛の中で、発した言葉だ。想像しようとしても想像が及ばない苦しみの中で発されたこれら叫び声が、しかし、民喜の胸の内で反響し、四方八方にグルグルと走り廻っていた。

グラスを手に取り、残りの水を口の中に注ぎ込んだとき、

「お水ください」

すぐそばでの声がした。ドキッとして声がした方向に顔を向ける。カウンターに座る中年の男性が空のグラスを持ち上げていた。

店員の女の子が男性のグラスに水を注ぎに行く様子を見つめながら、民喜は一瞬、自分がいまどこにいるのか分からなくなった。

 

 

 

*引用:『夏の花・心願の国』(新潮文庫、1973年、153頁)

 

 

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作者:鈴木太緒(すずき・たお)

   岩手県花巻市在住。猫3匹と同居。

お問い合わせ:neanderthal.no.asa@gmail.com