201511月 福島

 

最終章

 

1、

 フロントガラスを透して見える空は雲一つなく、真っ青に澄んでいる。祝日だからか、走行する車の量も多い。サイドミラーに映りこむデミオの青色のボディが太陽の光を眩しく反射させている。

ミーンミンミンミンミンミー……。

将人のデミオの青色の車体を見つめていると、どこかからミンミンゼミの鳴き声が聞こえてくるような気がした。が、もちろんそんなことはあり得ない。夏はとっくに終わり、もう紅葉の季節になっているのだ。街路樹のカエデが鮮やかな赤に染まり始めている。もうじき冬の気配もしてくることだろう。

 運転席に座る将人は珍しくゆったりとしたスピードで車を走らせていた。

「飴、食べる?」

助手席に座る山口凌空が将人に声をかけた。

「おっ、おう」

「何味がいい? レモン、オレンジ、ブドウ……」

「何でも」

山口は袋を破いて飴玉を将人に手渡した。

「サンキュー」

 将人は素早く口に飴を放り込んだ。山口は後部座席に座る民喜と駿の方を振り返り、

「よかったら」

 飴の入った袋を差し出してきた。

「サンキュー」

 民喜はレモン味を選んだ。包みを開け、飴を口の中に放り込む。甘酸っぱいレモンの味が広がる。

「美術館通り?」

 標識を見た山口が呟いた。

「んだ。もう少し行ったところに、郡山市立美術館があるんだ」

 将人が飴玉を口の中で転がしながら言った。

「へー」

「凌空君は福島は初めてだったっけ」

 駿が山口に尋ねた。山口は振り返り、

「うん、初めて。東北自体、ほとんど来たことないなー。仙台には一度立ち寄ったことがあるけど。福島は、今回が初めて」

「そっか」

「したっけ記念すべき一回目だ」

 将人は嬉しそうに笑った。

「ごめん、だから全然福島の地理感覚ないんだ。えーと、将人君たちの地元はこっからどれくらいだっけ?」

 車が橋の上に差し掛かる。キラキラと日の光を反射させて流れる阿武隈川が目に飛び込んでくる。その光景を見た瞬間、民喜の胸の内に懐かしいような、切ないような気持ちが湧き上がってきた。

「こっからだと、あと1時間半くらいかな。ま、祝日で込んでるから、もうちょっとかかるかも」

「了解」

 山口はカバンの中から地図を取り出した。福島県の地図のようだった。

「ここは、えーと……『中通り』?」

「んだんだ、中通り。中通りのちょうど真ん中辺」

 駿が後部座席から身を乗り出して地図を指差した。

「で、こっちが、『浜通り』……だっけ?」

 山口が沿岸部を指差すと、

「んだ。福島では沿岸部が『浜通り』って呼ばれてる。俺たちの地元が、この辺り。浜通りのちょうど真ん中辺かな」

 駿は故郷の町がある辺りに指を押し当てた。そして指をわずかに北にずらして、

「で、この辺が福島第一原子力発電所」

 山口は一瞬の間の後、

「そっか。そんな近かったんだ」

「町のすぐ近くに第二原発もあるぞ」

 将人が続ける。

「そうなんだ」

将人と駿はなぜか生き生きとした口調で山口に原発の位置を説明している。

「ここが、今日泊まる温泉」

駿は指を移動させ、いわき市の南の方をチョンチョンと突いた。

「照島温泉」

 山口が呟く。駿は頷き、

「んだ。浜通りの一番南の方。太平洋に面してて、眺めもいいぜ」

「オーシャンビュー、オーシャンビュー」

 将人が歌うようにして言った。

「魚も新鮮で、最高だぞ。なあ、民喜」

 バックミラー越しに民喜の顔を見つめる。

「うん」

「福島には他にもいい温泉がたくさんある。食い物もうめぇし酒もうめぇし。山ちゃん、福島は最高だぞ」

 将人は山口のことを「山ちゃん」と呼んでいるらしい。

「うん。いいところだなー」

 山口は窓の外に目を遣った。

「あー、早く温泉入ってビール飲みてー」

 将人が大声を上げると、山口と駿が声をあわせて笑った。民喜も一緒に笑いながら、何だか不思議な心地にもなっていた。将人と駿と山口がこうして、同じ車の中で談笑している。そして自分たちはいま、将人のデミオで故郷の町に向かっている。

あの日。

 

ネアンデルタールの朝が訪れたあの1018日から、およそ2週間が経った。

 退院した民喜は必要最小限の荷物をアパートに取りに行き、そのまま母と一緒に浜松の祖母のところへ向かった。

祖母の家へ行くのもずいぶんと久しぶりだった。祖母は以前と変わらず、民喜をにこやかに迎えてくれた。祖母の変わらない笑顔がありがたかった。

母はそれから1週間ほど滞在し、東京と浜松を行き来してアパートの荷物の整理や大学の休学の手続きなどをしてくれた。散らかり切った部屋の中を母に見られることは避けたかったが、仕方がなかった。野菜やリンゴが床に散乱する様子を見てさぞかしギョッとしたことだろう。

明日香とは毎日、ラインでやりとりしている。浜松の祖母の家に無事に着いたこと、6年前に他界した祖父の書斎が自分の部屋になったこと、大学の休学の手続きは滞りなく終わったこと……など、民喜の方からも逐一、近況を彼女に報告していた。この2週間、彼女の涙を、彼女の手の暖かさを片時も忘れたことがない。

明日香さんに会いたい、と思う。東京と静岡とで、彼女との間に物理的な距離が出来てしまったことが何より辛かった。

 紹介された心療内科にも行ってみたが、医者からははっきりとした病名は告げられなかった。十分な睡眠とバランスの取れた食事を心がけるように、と東京の病院と同じことを言われた。何種類かの薬を処方され、しばらく通院して経過を見守るということになった。

 浜松で新しい生活を始めてからは悪夢や幻覚は見ていない。いまのところ、幻聴も生じていない。生活のリズムは元通りになり、夜もよく眠れるようになった。その意味ではずいぶんと健康的な生活になったと思う。母と祖母の手料理を毎日食べることができるのも嬉しかった。久しぶりに心穏やかな生活が戻ってきたような気がしていた。

ただ、自分はいったい何の病気なのか、そのことがずっと心に引っ掛かり続けてもいた。なぜ医者ははっきりと病名を告げてくれないのだろう、と思う。

 

 

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作者:鈴木太緒(すずき・たお)

   岩手県花巻市在住。猫3匹と同居。

お問い合わせ:neanderthal.no.asa@gmail.com