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 昼食後、民喜は早速、絵の制作に取り掛かった。敷きっぱなしの布団を畳んで隅に移動させ、丸テーブルを部屋の真ん中に置く。アルバム、はさみ、のり、定規、色鉛筆、スケッチブック、そして群青の色画用紙をテーブルの上に並べる。淹れたてのコーヒーを少し離れたところに置いておく。

 まずスケッチブックにロウソク岩を描いてゆくことにする。アルバムに収められた写真を参照しつつ、鉛筆で岩の輪郭線を捉えてゆく。

故郷にいた頃はあまりに身近な存在であったけれど、こうして絵にしようとしてみるとまた新しい表情をもって目前に迫ってくるように感じる。巨人が鑿(のみ)を打ち付けて荒々しく長方形に仕立て上げたようなその立ち姿……。ロウソク岩を描くのは、思えば小学生の時に夏休みの宿題で写生をして以来だ。

輪郭をある程度捉え終わる。今度は、陰影をつけながら岩肌の質感を描いてゆく。荒々しさと繊細さを併せ持った独特の岩肌……。クリーム色、ねずみ色、茶色の色鉛筆も使って淡く色を重ね、仕上げとして、細い製図ペンで陰影を付け加えた。

ロウソク岩をひとまず描き終える。少し離れたところから絵を眺めてみる。写真と比較し、正確に造形を捉えることができているかどうか……。

うん、大丈夫だ。

民喜は頷き、はさみを手に取った。

昨晩見た不思議な光景を思い起こす。夜明け前の海岸に、異様にくっきりと浮かび上がっていたロウソク岩……あの光景を表現するには、スケッチブックに描いた岩を切り取って群青の色画用紙に貼り付けるのが良いだろう、と思う。

切り取ったものをのりで貼り付けると想像していた通り、いや、想像していた以上に岩は確かな存在感をもって群青の色画用紙の上に浮かび上がった。

確かに、ここに、ロウソク岩が在る――。

そう感じた。

(うん、これでいい)

胸の内で呟き、コーヒーを口に含む。

のりが乾いたのを確認し、次は、岩の頂上に密集する松の木を直接群青の画用紙に描き加えてゆく。この先端の松の木も、ロウソク岩がロウソク岩であるためになくてはならない部分だ。松の木が生えたこの先端部がいわばロウソク岩の頭であって、この先端部があるからこそ人々の目に親しみやすさを与えていたのだと思う。

強い筆圧で描けば、群青の色画用紙にも色鉛筆の線ははっきりと浮き出る。松の木の姿かたちを捉え、仕上げとして製図ペンで枝葉の細部を描いてゆく。

午後になって、部屋はますます蒸し暑くなってきている。セミの鳴き声もいっそう賑やかだ。扇風機はつけているがもちろんクーラーのようには涼しくならない。大切な絵が汗で波打ってしまわないよう、民喜はハンカチを手の下に敷いた。

先端の松の木を描き終える。次はいよいよ、あの炎のようなものをそこに描き加えることになる。

ここからは、もう写真を参考にすることはしない。脳裏に焼き付いているビジョンを基に描いてゆくことになる。

民喜は赤色の色鉛筆を取り、先端の松の木を覆うあの不思議な炎を描き込んでいった。

ロウソク岩が存在していたことを、なかったことにしてはならない

この想いが改めて民喜を捉えていた。

オレンジ、黄色の色鉛筆も使って明るさを加えてゆく。先端の松の木が徐々に揺らめく光明で覆われてゆく。

ロウソク岩の存在を「なかったかのようにする力」に、自分たちは抗い続けてゆかねばならない――。描きながら、民喜はそのようにも思った。

存在をなかったかのようにする力は近くに遠くに、この世界の至る所で猛威を振るっているのかもしれない。

民喜はふと数日前に見た嫌な夢のことを思い出した。6号線を通って、故郷に向かう夢……。

家に到着すると、建物全体を灰色の靄(もや)のようなものが覆っていた。線量計を靄に近づけても、はねのけられてしまう。ケヤキの樹の洞の周囲には濁った油のようなものがこびりついている。

突然、洞の中から手が伸びてくる。幾本もの手が、自分を暗い穴の中に引き込もうとする。後ろに何者かの気配を感じ、振り向くと自分を睨みつける巨大なイノシシの頭があった。

…………消えろ

あの声がまた頭の中でこだまする。蒸し暑い部屋の中にあって一瞬、寒気を感じる。何とも言えない不吉な予感が胸の内に湧き上がって来そうになる。

原発事故が起こったこと自体、そのうちなかったことにされてしまうのだろうか。自分たちの町が汚染土が入ったフレコンバックの山であれほど覆われていても。いまだ町のあちこちが、高い放射線量を示していても。

故郷に帰りたくても帰ることができない人がたくさんいても……。

色々なことが、なかったことにされていってしまうのだろうか。

ロウソク岩を背景に映した写真が目に留まる。嬉しそうに笑う自分と母。眠いのか眩しいのかよく分からない顔で母の腕に抱かれている妹。そしてその様子をきっと笑顔で写している父――。

 胸に鋭い痛みが走る。

事故の後、自分たち家族が苦しんできたことも。父と母との間に埋めがたい距離が生まれてしまっていることも。その内、なかったことにされていってしまうのだろうか。

母は涙で濡れた手で民喜の手を握って言った。

「あなたたちの体が、心配なの」――

ここに住んでいる人々が放射能の影響にさらされ続けていることも。まるではじめからないことのようにされてゆくのだろうか。

否!

それはいやだ。そうなるべきじゃない。俺らは、それら力に抗うべきだ。

民喜は否定的な力を振り払うように首を振り、指先にさらに力を込め、岩の先端にともる光明を描いていった。

 

存在したものが、

あたかも存在しなかったかのように

されてしまうことが、

ないように。

 

すべての存在が、

「そのもの」として存在し、

かつ、これからも存在し続けるように。

 

存在が、

あたかもはじめから存在しなかった

かのようにされることが、

決して、ないように。

 

……

 

ふすまを軽やかに叩く音がし、

「お兄ちゃん、ご飯だよ」

 咲喜が部屋に入って来た。

壁にかかっている時計を見る。18時半過ぎ。ほとんど休憩をとることなく、5時間以上絵を描き続けていたことになる。

「絵、描いているの?」

咲喜が嬉しそうにテーブルの上を覗き込んだ。

「うん」

「何の絵?」

民喜は絵をそっとスケッチブックで覆い、

「まだ秘密」

「えー、知りたい」

 咲喜は大げさに体をゆすった。民喜は笑って、

「完成したら、見せてやっから」

 と言ってなだめた。

 

 

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作者:鈴木太緒(すずき・たお)

   岩手県花巻市在住。猫3匹と同居。

お問い合わせ:neanderthal.no.asa@gmail.com