4、

階段を降りると、出入り口のところに明日香が立っているのが見えた。スマホの画面を人差し指でスクロールしている。誰かを待っているのだろうか。

「あ、明日香さん、お疲れ様」

明日香は顔を上げ、

「あっ、民喜君、お疲れさま」

 少し恥ずかしそうに微笑んだ。

先ほどの全体練習で、久々に明日香の歌声を聴いた。彼女の声を聴いた瞬間、民喜は胸が一杯になってしまった。このひと夏の間、自分を支え続けてくれたのが彼女の歌声だったから……。

「明日香ちゃん、民喜君、お疲れー」

「じゃあねー」

 部員たちが通り過ぎてゆく。

「あの民喜君……」

 明日香は民喜の方に一歩近づき、

「私、スマホ新しくしたんだ」

「あっ、そうなんだ」

 民喜が頷くと、

「番号も変わったんだ。新しく登録してもらっていい?」

「あ、もちろん」

 カバンの中からスマホを取り出す。彼女はニコッと笑って、

「ありがとう。今から民喜君の番号に電話するね」

 間もなくスマホが鳴る。

「これが、新しい番号」

「了解です」

 明日香の新しい電話番号を追加登録する。彼女は民喜がスマホを操作する様子をジッと見つめている。

「はい、登録しました」

「ありがとう」

 明日香は数秒の間の後、

「あっ、あと、民喜君、ライン使ってる?」

「うん」

「まだライン、交換してなかったよね」

「あ、うん」

 思わずドキッとする。

「交換してもらっていい?」

「もちろん」

民喜は即座に頷いて、

「QRコードでも大丈夫かな」

「うん、大丈夫」

 明日香はスマホを操作しながら頷いた。

「じゃ、私のコード、表示するね」

 彼女のスマホの上に自分のスマホを掲げる。読み取りはすぐに終わり、画面に彼女の名前と猫の画像が表示された。

「ありがとう」

 明日香はチラッと民喜の顔を見て、恥ずかしそうに微笑んだ。

 ――よろしくお願いします

 メッセージを送ってみる。瞬時に既読になり、

 ――こちらこそよろしくお願いします

 ウサギのスタンプと共に返事が届いた。

 明日香とラインを交換できたことの喜びが胸の内に湧き上がってくる。

「民喜君、明日香ちゃん、お疲れ様ー」

 部長の妙中真美が階段を駆け下りてきた。

「また明日ー」

 颯爽と歩き去ってゆく妙中真美の後姿を見送ってから、二人は西棟を出た。

外はもうすっかり薄暗い。ついこの間まで7時を過ぎても明るかったのに、いつの間にか日が短くなってきているらしい。どこかから澄んだ虫の声が聴こえてくる。

明日香は特に誰かを待っていたということではないらしかった。

「明日香さんのプロフィール写真、猫なんだね」

 何か会話をしなければと思って、話を振ってみる。明日香はパッと嬉しそうな表情になって、

「そうなの。実家で飼ってる猫なんだ」

「へー」

「名前は?」

「ソラ」

「ふーん、ソラ。雄?」

「うん、雄」

「そっか。何ていう種類?」

「キジトラ。保護猫をもらいうけたの」

 彼女が猫好きであることを初めて知った。

「民喜君は猫飼ったことある?」

「いや、ないなあ」

「そうなんだ。何かペットは飼ってた?」

「いや、飼ったことないなあ」

「ふーん」

 それで会話は終わってしまった。民喜は自分が何もペットを飼ったことがないことを悔やんだ。犬や猫は無理でも、せめて亀くらい飼っておけばよかった。

礼拝堂の横を通り過ぎる。バスロータリーの向こうにあの直線道路が続いているのが見える。等間隔に置かれた外灯が葉桜を照らし出している。

この夏自分が経験したことを明日香に話してみたかった。でも、一体何から話せばいいのか、どう話せばいいのか、ふさわしい言葉が浮かんでこない。

しばらく沈黙が続く。あちこちの茂みから、涼やかな虫の音が響いてくる。

「あの、前から聞きたかったんだけど、民喜君の名前ってハラタミキとは関係あるの?」

 今度は彼女の方から話題を切り出してくれた。明るく、リラックスした感じの口調だった。

「ハラタミキって?」

 誰のことを言っているのか分からず、尋ね返す。

「広島の原爆を小説にした人」

 民喜は明日香の顔を見つめ、

「広島の原爆?」

「うん」

「えーっと、どうだろう……? 僕の父が『民夫』で、そこから一字取って『民喜』にした、っていうのは聞いたことがあるけど……」

「そうなんだ、じゃあ、たまたま同じ名前なんだ」

「うん、たぶん、そうだと思う。ちなみに、祖父の名前は『民治』」

「へー、代々、『民』という字が付いてるんだね」

 明日香は指で空中に「民」という字を書いた。

「うん」

 会話を終わらせていけないと思い、

「その人、原爆について書いてるんだね」

 と続けてみる。

「うん。私もまだちゃんと読んだことはなくて、高校の時に授業で習っただけなんだけど……。広島で原爆に遭って、その体験を小説にした人だったと思うよ」

「へー」

 明日香はスマホを取り出し、画面を操作し始めた。青白い光が明日香の顔と指先を照らし出している。まもなく、

「うん、やっぱり」

 と言って、頷いた。

「いまウィキペディアで調べてみたんだけど。広島で被ばくした体験を詩や小説に残した、って書いてある」

 明日香は立ち止まって、民喜にスマホを見せた。肩を寄せ合うような恰好になり、一瞬、腕と腕とが触れる。ドキッとしつつ、民喜は画面をのぞきこんだ。青白く発光するディスプレイに「原民喜」という文字が太字のゴシックで浮かび上がっている。確かに、下の名前が自分とまったく同じだ。

 興味深くスマホを見る様子を装いつつ、彼女との距離が急接近していることで民喜の頭はいっぱいだった。彼女の体から花のような香りが漂ってくる。何で女の子はこんなに良い香りがするんだろう、と思う。

 明日香は画面をスクロールさせ、

「これが、原民喜さんの写真……。あれっ、ちょっと民喜君に似てない?」

 

 

彼女の言葉にふと我に返ったようになって、民喜は画面を見つめた。青白い光の中に、黒縁の眼鏡をかけた中年の男性が浮かび上がっている。

年は四十台半ばくらいだろうか。低い塀の上にもたれかかりながらぎこちない感じで控えめにポーズを決め、こちらに顔を向けている。来ているスーツはヨレヨレで、丈も合っていないように見える。

「うーん、似てる……かなあ?」

 あまり似ているように思えなかったが、否定しても悪いと思って曖昧な返事をした。

 明日香は人差し指と親指を使って画像を拡大させた。民喜も改めてスマホの中の男性の顔を見つめた。

写真の中の男性はこちらに顔を向けてはいるが、よく見ると、視線を前の方に逸らしていた。おそらく照れくさくて、カメラに目線を向けることができなかったのだろう、と感じた。内向的で、自意識過剰で、なおかつ不器用なところなどは、確かに自分と似ているかもしれない。写真の中の男性にわずかに親近感を覚える。

「確かに、ちょっと似てるかも」

 笑いながら答えると、明日香も笑顔で、

「民喜君、将来こんな感じのお父さんになるかもね」

 と言った。

二人で再び歩き始める。明日香がスマホをカバンにしまうと、それに伴って彼女との距離が少し離れた。

「原民喜の本、今度、読んでみようかな」

明日香との距離が急接近したことの余韻を味わいつつ、民喜は言った。「読んでみよう」という言葉は嘘ではなかった。

 原民喜という人は広島の原爆によって被ばくし、彼と同じ名前の自分はその66年後に福島の原発事故によって被ばくした。原民喜という人物に対して、民喜は何か不思議なつながりのようなものを感じ始めていた。

 明日香は頷き、

「私も機会があったら読んでみるね」

 と微笑んだ。

 

正門が近づいて来る。600メートルの長さの「滑走路」も、二人で歩いていると、あっと言う間だった。もっともっと彼女と並んで歩いていたかったのだけれど……。

「明日香さんは、バスだよね」

「うん」

 正門の前に立ち止まり、

「じゃ、また」

「うん、またね」

「お疲れ様」

「お疲れ様」

ぎこちなく手を振って、彼女と別れた。

 

 

 

 

*画像:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「原民喜より転載。

 

 

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作者:鈴木太緒(すずき・たお)

   岩手県花巻市在住。猫3匹と同居。

お問い合わせ:neanderthal.no.asa@gmail.com