3

 

1、

「ビール飲むか?」

 冷蔵庫から500ミリリットルの缶ビールを2本取り出してきた父は言った。

「うん」

 民喜は頷いた。父はすでに飲み始めていたようで、幾分顔が赤い。

この度の帰省で父の民夫(たみお)とは7か月ぶりに顔を合わせたが、少々疲れた顔をしているのが気になった。目の下には微かにくまもできている。父は今年でちょうど50歳であるが、実年齢よりも幾分老けて見えるかもしれない。短髪の髪の毛には白髪が目立ち始めている。

父は缶のふたを開けて民喜のグラスにビールを注いだ。グラスを手に取り、少々ぎこちなく斜めに傾ける。泡があふれそうになったので急いでグラスに口を近づける。

思えば、父からビールを注がれたのはこれで2回目だ。初めて父からビールを注がれたのは20歳になって間もない昨年の夏のこと。父から酒を注がれるということに民喜はまだ慣れずにいた。

民喜も缶ビールを手に取って父の空いたグラスにビールを注いだ。こぼさないように気を付けつつ、ゆっくりビールを注いでゆく。こうして父に酒を注ぐというのも何だか不思議な感じだ。

ビールを一口飲む。よく冷えていて、一瞬頭がクラッとする。

今日一日、民喜はほとんど寝て過ごした。何か気が抜けてしまったような感覚が民喜を捉えていた。眠り続ける自分を母も無理に起こそうとはしなかった。

一日を無為に過ごした自分が仕事を終えて帰ってきた父と同じようにビールを飲んでいいのだろうか、と微かな後ろめたさを感じる。

民喜が寝起きしている和室にはエアコンはなく、日中はかなり蒸し暑くなる。扇風機の風力を最大にしても汗が噴き出てくる暑さだが、そのような中でも起き上がって何かをしようという気になれなかった。夢とうつつの間を行き来する中、瞼の裏に浮かんでくるのは昨日目にした故郷の町の光景だった。……

 

「先に食ってっぺ」

父は箸を手に取り、から揚げを食べ始めた。食卓の上にはすでに鶏のから揚げや枝豆が並べられている。母はまだ向こうの台所で何かを作っているようだった。母を手伝う妹の咲喜(さき)の声も聞こえてくる。

父は家事はすべて母にまかせきりで、自分では一切料理も洗濯もすることはない。民喜の家庭ではそれが当たり前であり、民喜自身も母から料理を習うということをしないまま今日まで来てしまった。

民喜は台所の方に顔を向けて、しばらく台所の様子を伺っていた。母も咲喜もまだこちらに来る気配はない。民喜は箸を手に取ってから揚げを食べ始めた。

 食べた瞬間、

(あっ、これこれ)

胸の内で呟いた。母が作るから揚げが民喜は幼い頃から好物だった。俄然、食欲が湧き出してくる。ビールを一口飲み、素早く次のから揚げに手を伸ばす。

「夏休みはいつまでだ?」

 グラスを手に父が言った。営業で外出することが多い父は顔も両腕もよく日焼けしている。

9月の始めまで」

「こっちにはいつまでいんだ?」

「今回はちょっと長めにいる。8月の終わりか9月の始めまで」

「夏休みの宿題はねえのか」

「レポートの課題があるけど、もうほとんど終わらせてきた」

「そっか。いいな、学生のときは。時間がたっぷりあるのはいまだけだぞ。大事に使わねえとな」

「うん」

「咲喜はたくさん宿題残ってる。最近の小学生はこんなにも宿題あんのかって驚いた。一緒に宿題見てやってくれ」

「分かった」

父とこうして二人で会話をするのも、ずいぶん久しぶりな気がする。

「もう少し飲むか?」

 父は新しい缶を手に取った。民喜は黙って頷き、やはり少々ぎこちなくグラスを斜めに傾けた。

「大学でも飲んでるか」

「うーん、あんま」

「俺は大学ん時は、よく飲んだな。民喜もこれから飲む機会が増えてくだろうけどな。んだけんじょ、あんまり飲みすぎんなよ」

そう言う父自身は最近かなり飲酒量が増えているようだった。もともと酒好きであったが、震災後、さらに飲酒の量が増えた。民喜が高校生の頃は、このように夕食前から酒を飲み始めているということはなかったように思う。

「ほとんど依存症よ」

先月電話をした時、母はため息まじりにそう呟いた。

 

「あっ、お兄ちゃん、ビール飲んでる!」

咲喜がサラダの皿を手にやってきた。

「民喜はもう大人だからビール飲んでもいんだ」

 父が赤くなった顔をほころばせて答える。

「大人だから」と言われて、民喜はこそばゆいものを感じた。年齢としては確かに大人にはなったが、自分を成人の男性だと意識したことはまだない。実家に戻ってくるといまだ自分が高校生であるような気がしてくる。

 皿を並べる妹の横顔を見つめながら、ずいぶんと髪が伸びたな、と思う。咲喜は後ろの髪を三つ編みにし、二つにまとめていた。三つ編みを解けばかなりの長さになるだろう。前髪はヘアピンで留め、丸いおでこを見せている。

「咲喜、ずいぶん髪伸びたな」

 民喜がそう言うと、

「そうでしょ!」

 咲喜は顔を上げ、嬉しそうに笑った。

「あっ」

パチンと手を叩き、

「お兄ちゃん、ちょっと待ってて」

 いたずらっぽい笑みを浮かべ、小走りで台所へと向かった。

咲喜はこの1年でずいぶんと髪が伸びたが、一方で、身長はあまり伸びていないような気がする。体の線も細く、咲喜には悪いけれど11歳の女の子には見えない。

「お兄ちゃん」

 台所から声が聞こえた。見ると、壁の向こうから髪を解いた咲喜が床に跪いた格好でソロソロと這い出してきた。顔が隠れるように髪の毛を全部前に垂らしている。ホラー映画『リング』の貞子の真似をしているらしい。

「お兄ちゃん、貞子」

 咲喜は髪で覆われた顔を上げた。

「わあ」

 椅子からのけぞり、大げさに驚いて見せる。咲喜は両手で髪の毛をかき分け、

「驚いた? ハハハハッ」

 弾けるように笑った。

「びっくりした」

「やったー」

 咲喜はパチパチと手を叩いた。

「咲喜、ちょっと通るわよ」

 お盆を手にした母の晶子がやってきた。

「どうだった?」

母が床にしゃがみ込む咲喜に声をかけると、

「大成功!」

 そう言ってピョンと立ち上がった。

「咲喜、この前は父さんも驚かしてくれたな」

 父は嬉しそうに咲喜の髪をクシャクシャとなでた。どうやら貞子の真似をするのが最近の妹のお気に入りになっているらしい。

 立ち上がった妹のお尻の近くまで髪の毛は伸びていた。

「咲喜、ホント、髪伸びたな」

 感心したように呟く。

「ヘアドネーションのために伸ばしているのよね」

 ご飯とみそ汁を並べていた母が妹に微笑みかけた。

「うん!」

 咲喜が勢いよく頷く。

「ヘアドネーション?」

「髪の毛を寄付するの」

「子どものための医療用のウィッグよ」

 母が続ける。

「へー、そういうのがあんのか」

「そうだよ。病気やケガで髪の毛がなくなった人たちのために寄付するんだ」

「どれくらいの長さが必要なんだ?」

31センチ以上」

 咲喜はすかさず答えた。

「へー、そんなに。でももう十分それくらいの長さはあるんじゃねえか」

 改めて咲喜の髪を見つめる。くせ毛の自分とは違い、妹の髪はまっすぐでツヤツヤしている。

「うん、でももうちょっと、伸ばしておくの」

「ふーん、そっか。で、咲喜はどこで知ったんだ? えーと、その、ヘア何たら……」

「ヘアドネーション。テレビで観たの」

 母は咲喜のサラサラとした髪をなでながら、

「テレビで紹介されているのを観て、咲喜が自分からやりたいって言ったのよね」

 母は民喜の正面の席に座り、

「はい、咲喜も座りましょ」

「へー。偉いな、咲喜は……」

 感心して呟く。母の隣に座った妹は嬉しそうに笑い、

お兄ちゃんも伸ばしてみたら?」

「兄ちゃんはくせ毛だから駄目だ」

「くせ毛でもいいんだよ」

「でも俺が髪伸ばすと、大変なことになる。ほら、ベートーベンみたいになる」

「じゃあ、後ろでくくったら。かっこいいと思うよ。坂本龍馬みたいになるんじゃない」

「いや、駄目だ。兄ちゃんがやったら、変な人になる」

「はいはい、咲喜も食べましょ」

 母が促すと、

「いただきまーす」

 咲喜は手を合わせて食べ始めた。

こうして家族そろって食事をするのも久しぶりだ。民喜は実家にはすでに3日前から帰省していたが、平日は父の帰りは遅く、母と妹とで先に食事を済ましていた。早めに父が帰宅した土曜日の今日、久々に家族そろっての夕食となった。

「髪はいつから伸ばしてたんだ?」

 白ご飯をほおばりつつ尋ねる。

「えーと、どれくらいかなあ」

 咲喜は上を見て、

「どれくらいかなあ、ねえ、お母さん」

「髪はもう4年くらい、ずっと切ってないわね。咲喜はもともと髪はロングだったけど、ヘアドネーションをするって決めたのは、確か一昨年だったかな」

「へー。そうだったんだ。全然知らなかったな。でもやっぱ、それくらいかかるんだ」

「長い髪は手入れも大変だし、今日みたいに暑い日は咲喜も大変だと思うけど、我慢してよく頑張ってるわ」

 母がそう言うと、

「咲喜、偉いぞ」

 赤黒い顔をした父がボソッと呟いた。咲喜はモグモグ口を動かしながらVサインをした。

「そこまでして頑張ってるのは、なして?」

 妹は口の中のものを飲み込んで、

「テレビで、がんの女の子が出てて、頑張ってたから」

 と言った。母は少しの間の後、

「小児がんで……闘病してる女の子の番組を観たのよね」

 と続けた。

「ふーん。そっか」

 民喜は頷いて、ご飯を食べる母と妹の顔を見比べた。

母と咲喜は最近ますます顔が似てきた、と思う。特に目の辺りがそっくりだ。少しつりあがった、ぱっちりとした二重の目。一方で、父と妹はあまり顔が似ていない。父はどちらかというと垂れ目で、一重瞼。民喜自身は両親の中間くらい。奥二重で、少しつりあがった目をしている。父ほど細い目ではないが、母ほどぱっちりとしているわけでもない。ちなみに、家族の中で眼鏡をしているのは自分だけ。

母の晶子(しょうこ)は父よりも2歳年下だ。生まれは静岡で、父と違って福島の出身ではない。仙台の大学で民夫と出会い、結婚を契機に福島の浜通りに移り住むことになった。

小学6年生の授業参観の時、同じ班の女の子から「民喜くんのお母さん、きれい」と言われたことがある。民喜自身はもちろんそのような観点で母を見たことがなかったので幾分戸惑いながらも、内心嬉しかったのを覚えている。第三者から見ると、母は美人の範疇に入るのかもしれない。

ただし母のその特質は咲喜には受け継がれているが、残念ながら自分には受け継がれていないようだ。我ながら、可もなく不可もない顔。次の瞬間には忘れてしまうような顔。特徴といえば、眼鏡をかけていることくらいか。あとは、くせ毛であること。

残念なことと言えば、体つきが華奢であることもそうだ。特に手足の細さが際立っている。手首も異様に細く、腕だけを写真で切り取れば女の子と間違われるに違いない。父の民夫は体格ががっしりとしていて、腕や手首も太いのに。なんで自分にはその父の特質も受け継がれていないのだろう、と思う。

かといって、筋トレをして体を鍛えようとも思わない。民喜の内にあるものはコンプレックスというより、諦念に近かった。

もちろん、運動も全般的に苦手。特に球技がまったく駄目だ。小学校の時のドッジボールなど地獄の時間だった。唯一、人並みの結果を残せたのは中学のマラソン大会くらいだろうか。と言ってもその順位も、ちょうど真ん中くらい。まあ、これもやはり人から見れば、可もなく不可もない結果……。

テレビからバラエティー番組の賑やかな音声が聞こえてくる。出演者たちの笑い声につられて画面に顔を向ける。

そう言えば、父は以前はこのように食事中にテレビをつけることをゆるしてくれなかった。それがいつの間に、オッケーになってしまったのだろう。咲喜にとっては夕食時にテレビがついていることはもはや当たり前のことなのだろうか。

「咲喜は宿題、進んでるか」

 グラスに自分でビールを注ぎながら父が言った。

「ううん、あんまり」

 咲喜が首を振ると、

「民喜が宿題見てくれるってよ」

「やったー」

 妹は片手を挙げた。

 

テレビの画面がニュースに切り替わった。「戦後70年、平和を誓う終戦の日」というテロップが表示された。

「終戦から70年を迎えた今日、政府主催の全国戦没者追悼式が日本武道館で開かれました」

アナウンサーのナレーションと共に日本武道館での追悼式の様子が映し出されている。そう言えば今日は815日だったな、と民喜はぼんやりとした頭で考えた。

夕食を終えた民喜はソファーに座ってぼんやりとテレビを観ていた。酔っ払った父はすでに寝室に行って寝ていた。母は台所で洗い物をしている。咲喜の姿が見えないが、シャワーを浴びているのだろう。

ビールを2杯飲んだせいで、頭がボーっとする。民喜は自分が酒に強くはないことを自覚していた。普段も自らすすんで酒を飲むということはしない。

「追悼式には天皇皇后両陛下、安倍総理大臣、各界代表、全国の戦没者遺族およそ5300人が参列し、正午の時報に合わせ、1分間の黙祷がささげられました。……」

終戦の日の今日、山口たちは国会前でデモをしているはずだった。

「戦争法案、絶対反対!」

「憲法守れ!」

いまこの時も国会前では大勢の人がシュプレヒコールを繰り返しているだろう。

「いま大事な時だから」――

昨日の山口のラインのメッセージが頭に浮かんでくる。この大事な時にこうして福島の実家で酔っ払ってテレビを観ている自分……。国会前で行われているデモが民喜には遠い世界の事柄のように思えた。

ソファーから立ち上がり、少しよろめきながら隣の和室へ入る。和室は普段は物置として使用されているが、民喜が帰省している間は民喜が寝起きするための部屋になる。2階建ての一軒家であった前の家に比べ、借り上げ住宅のこの家は部屋数が少なく、狭苦しく感じる。

民喜はカバンの中から「ネアンデルタールの朝」の絵を取り出した。

朝の光の中、微笑みを浮かべるネアンデルタール人の家族――

絵を見た瞬間、何か暖かなものが心の内に湧き出でそうになった気がしたが、じきにそれらは否定的な想いの渦の中にかき消されていってしまった。

夕食の間、父と母はまったく目を合わせなかった。二人はそれぞれ子どもたちに対しては話をするが、互いに会話をすることはない。両親が互いに想いを伝えあうことをしなくなってから、もう3年以上が経つ。

「ネアンデルタールの朝」を取り戻すため、自分はあの町に帰った。でもこの絵を取り戻しに行くことが、そんなに重要だったのだろうか。

 絵は確かにこうして自分の手元に戻った。でも、それが一体何だというのだろう? 一体何が変わったというのだろう?

何が何だかよく分からなくなった民喜は畳の上に座り込んだ。絵の中の三人は、やはり静かに微笑みながら民喜の方を見つめていた。

 

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作者:鈴木太緒(すずき・たお)

   岩手県花巻市在住。猫3匹と同居。

お問い合わせ:neanderthal.no.asa@gmail.com