4、

体がフッと軽くなる。ドサッという音と共に、イノシシ人間が民喜の真横に倒れ込んできた。怪物の体には木の棒が突き刺さっている。

 見ると、すぐ傍らに誰かが立っていた。腰にまとった薄い茶色の毛皮、筋肉質な上半身、金色の長髪と髭――ネアンデルタール人の男性だった。

男性が木の棒をサッと引き抜くと、イノシシ人間は体をピクリと震わして微かに呻き声を上げた。棒の先端には鋭利な矢じりが付いていた。

(助かった……!)

 と思う。

ネアンデルタール人が、俺を助けてくれた……!?

ネアンデルタール人の男性は今度は腰から涙滴形の石器を取り出した。倒れている怪物ののど元に押し付け、そしてスパッと頭と胴体を一気に切り離した。

コンクリートの上に、イノシシの頭がゴロンと転がる。民喜は息を飲んだ。と思うと、切り離された頭部は野生のイノシシの親子に変化した。親イノシシと2匹のうり坊はクルッと向きを変え、山の方へと素早く走り去っていった。怪物が倒れていた場所には、白衣だけが残されている。

民喜は呆然としつつ、上半身を起こした。

ネアンデルタール人は民喜の方に顔を向けることなく、何かを考え込むような表情でジッと前方を見つめている。目を閉じ、大きく息を吸った後、男性は目の前の虚空に勢いよく石器を突き立てた。暗闇にパッと小さな裂け目が走る。と同時にその裂け目から一筋の光が射し込んだ。

「アッ!」

 声を上げる。

男性は裂け目に刃を突き立てたまま、柄の部分を両手で持ち直し、全体重をかけて下へとおろし始めた。それに伴い、間隙から眩い光が溢れ出てくる。民喜は思わず立ち上がった。

男性の腕や胸の皮膚の表面に細かな汗の粒が噴き出している。彼がいま、この動作にすべての力を注ぎこんでいるのが分かった。顔は紅潮し、眉の上のアーチ状の隆起部からボトボトと汗がしたたり落ちている。

 幾重もの層になった厚い垂れ幕が上から下まで裂けてゆくように、眼前の世界が徐々に二つに裂けてゆく。そしてその裂け目から眩い光が溢れ出てくる。

 ネアンデルタール人の男性の口から獣のような唸り声が漏れた。彼は身を屈めて一気に体勢を低くした。裂け目が一段と大きくなり、遂に足元まで達した。すると巨大なネズミたちがいる世界が真っ二つに裂けた。

光が洪水のように流れ出て、民喜の全身を包み込む。民喜はあまりの明るさに目を瞑った。

………………………………

 

 

チュ、チュン……。

頭上から小鳥の鳴き声が聞こえてくる。足元から川のせせらぎの音が湧き上がってくる。

民喜はそっと目を開けた。青い空、風に揺れる樹々、朝の光をキラキラと反射させて流れる小川……。目の前には、渓谷のある景色が広がっていた。

 隣に立つネアンデルタール人の男性はゆっくりと民喜の方に顔を向けた。先ほどの厳しい表情とは違って、穏やかな表情だった。金色の髪と髭が微かに風に揺れている。アーチ状に盛り上がった眉上隆起の下に宿る瞳がまっすぐに民喜を見つめている。口元はどことなく微笑んでいるようにも見えた。男性はあの日、夢で見たのとまったく同じ姿をしていた。

まるでレスラーのように骨太でがっしりとした体格をしている――が、並んで立つと意外と小柄であることが分かった。自分より背丈は10センチ以上低い。

 一体何が起こっているのか分からないまま、とりあえず助けてもらったお礼を伝えよう……と思うが、当然ながら言葉が出てこない。ネアンデルタール人の言葉で「ありがとう」は何て言うのだろう?

民喜が戸惑っている間に男性は身を屈めて、民喜の足を覗き込んでいた。左足のすねの辺りに血が滲んでいる。何かの拍子に擦りむいてしまったらしい。

彼はしゃがんだまま、クルリと向きを変えた。こちらを振り向き、頷いている。「おんぶをする」と言ってくれているのだと感じる。

「あっ、ありがとうございます」

とりあえず日本語で礼を伝える。それほど大した怪我ではないしどうしようかと一瞬迷ったが、彼の言葉に従うことにする。

遠慮がちに、男性の背中に体を預ける。彼は軽々と立ち上がり、前へと歩き始めた。分厚い木の板のように、固く頑丈な背中だった。肩に羽織る薄茶色の毛皮から、陽だまりの芝生のような匂いが漂ってくる。

朝の光に包まれながら、渓谷の中をネアンデルタール人の男性に背負われて進んでゆく。小鳥の鳴き声、小川のせせらぎの音。すぐ目の前で、男性の金色の髪が風に揺れている。

何とも言えない不思議な感覚と安堵感とが胸の内に湧き上がって来る。もう大丈夫だ、と思う。もうここにはあのイノシシ人間も、あの巨大ネズミたちもいない、ということを民喜は確信していた。

全身から力が抜けてゆく。民喜は両腕をダラリと前へぶら下げ、ネアンデルタール人の男性の背中に全身をあずけた。一歩一歩、彼が大股で歩く度に生じる震動が心地よい。

いつ以来だろう、こんな感覚……。

まるで幼い頃の自分に戻っているように感じる。何の不安も、恐れもなく……。

「フーン、フーン、フーン……」

耳元で虫の羽音のような音が聞こえるなと思ったら、ネアンデルタール人の男性が低い声で鼻歌を歌っていた。

「ふふふっ」

ネアンデルタール人も歌を歌うんだ、と思ったら笑ってしまった。

小さな滝の前を通り過ぎると、木々の間から灰褐色の岩山が見えた。岩山の中央には洞窟が口を開いている。

だんだんと洞窟の方へと近づいてゆく。誰かが穴の中から出て来るのが見える。民喜はハッとして上体を起こした。そこにいるのは、ネアンデルタール人の女性だった。

女性は上半身に柔らかそうな毛皮を羽織っている。まっすぐな髪は胸の辺りまで伸び、口元には微笑みを浮かべている。女性の姿も、あの夢で見た通りのままだった。

洞窟の入り口までたどり着く。ネアンデルタール人の男性は民喜をゆっくりと地面に下ろした。足の怪我を気遣ってくれているのが分かる。男性が手を上下にブラブラと動かしている。座るようにと指示しているらしい。

「こんにちは」

女性に挨拶をする。彼女は民喜の挨拶には答えず、しゃがんで民喜の足を覗き込んだ。怪我をしている部分を気にしてくれているようだった。

ネアンデルタール人の女性は骨のような容器を手に取り、中に入っている水を民喜の足にかけてくれた。

「あっ、どうも」

 礼を言うと、女性は顔を上げ、民喜の目をジッと覗き込んだ。アーチ状の眉上隆起の下に宿る瞳は湖のように青く澄んでいた。女性はしばらく民喜の目を見つめた後、ニコッと微笑んだ。目じりや口元に柔らかな皺が寄る。民喜の全身を感動が貫く。まるで全世界に微笑みかけられたかのように感じた。

気がつくと民喜のすぐ隣にネアンデルタール人の女の子が立っていた。歳は6歳くらいだろうか。肌の色は透き通るように薄く、ふっくらとした頬が赤く染まっている。服装を別にすれば、見た目は自分たち現代人とほとんど変わらない。

母親は傍にあった葉っぱを手に取り、もみほぐして怪我をしている部分にそっと押し当てた。薬草の効果があるのだろう。少女は心配そうな顔で民喜の足を見つめている。

そのとき、民喜のズボンのポケットから小さな豆のようなものが零れ落ちた。つまんで手の平にのせてみる。丸くて茶色い、あの種だった。

民喜は種をそっと少女の前に差し出した。少女は種をつまんで手の中にしまい、嬉しそうにニコッと笑った。

朝の光が洞窟の内側を照らし出している。それほど広くはなく、洞窟というより風雨に浸食されて出来た大きな窪みと言ったほうがいいかもしれない。

帰って来た――

唐突に、その想いが民喜の胸を捉えた。

帰って来た。やっと、長い時間をかけて、ここに……。

父と母の話し声、咲喜の笑い声が聞こえてくる。

あら、民喜、今日は早起きね

母が微笑みながら言った。

朝ごはん食べる?)――

 民喜はゆっくりと立ち上がった。左足のすねにあったはずの傷は消えていた。

目の前に、ネアンデルタール人の家族が並んで立っている。真ん中の女の子は胸の上で両手を重ねている。先ほどあげた種を大切に持ってくれているようだった。

 

彼らの微笑みを前に、思わず民喜も微笑んだ。すると彼らの口元が微かに動いた。

…………善い

その口元は確かにそう言っていた。心の深みから熱いものが込み上げてくる。

彼らから発せられた声は光となって、民喜の全身を包み込んだ。眩く、それでいて暖かな光が自分を包んでゆくのを感じる。民喜は胸の上に手を置いた。

…………善い

大粒の涙が頬にこぼれ落ちてゆく。……

 

 

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作者:鈴木太緒(すずき・たお)

   岩手県花巻市在住。猫3匹と同居。

お問い合わせ:neanderthal.no.asa@gmail.com