3、

「どうしてあの人、あんな恰好してるの?」

 咲喜が後部座席から身を乗り出し、前方を指さした。

渋滞する車列の隙間から、白い防護服を着た人が車の誘導をしているのが見える。

助手席に座っていた母はビクッと肩を震わせ、運転席の父の腕を素早く叩いた。父は母が指さす方向を見て「うーん」と唸ったきり、それからしばらく何も言葉を発さなかった。

後部座席にいる民喜からは父の顔の表情までは見えない。

どこまでも続く渋滞の列と、防護服を着て誘導をしている人。何だかSF映画を観ているような不思議な光景だった。

「民喜、窓はちゃんと閉めてんな」

 ふと思い出したように父はそう言って、素早くエアコンを切った。民喜は左右の窓が閉まっているのを確認し、

「うん」

と返事をした。

「大丈夫、万が一に備えて、あんな恰好をしてるんだ」

 父は運転席から後ろを振り返って、

「大丈夫だ」

民喜と咲喜に笑いかけた。微笑んではいたが、その表情は引きつっていた。このような父の顔をこれまで民喜は見たことがなかった。

 胃の中がギュッと締め付けられるような不安を感じる……。

 

 …………

 

「念のため、飲んでおいて。民喜は2錠」

  民喜の目を見つめながら、母は水の入ったコップと小さな包装フィルムを民喜に差し出した。赤色の透明な包装フィルムの中には丸い粒状のものが入っている。

 

「何これ?」

「安定ヨウ素剤」※

 緊張した面持ちで母は答えた。

「安定ヨウ素剤って?」

「放射能から甲状腺を守る効果があるらしいの。とても大事なものだから、いま飲んでおいて」

「ふーん」

「咲喜は、1錠だけ」

 母はそう言って赤色の透明な包装フィルムを破った。フィルムを破る母の手は微かに震えていた。

「民喜、ゆっくり、1粒ずつでいいからな。慌てんな」

 同じく緊張した面持ちで父が言った。よく理解ができないながらも、両親の表情にただならぬものを感じつつ、民喜は頷いた。

フィルムを破り、錠剤を2粒、手の平にのせてみる。丸くて茶色い、まるで何かの植物の種のようだった。

咲喜は民喜の手の平を覗き込み、

「これ、何の種?」

と尋ねた。咲喜も同じことを感じたらしい。

「種じゃなくて、人が飲むものよ」

母が答える。

「ふーん。咲喜も飲むの?」

「そうよ」

さほど大きいものではないので、民喜は2粒とも口の中に放り込んだ。コップの水を口に含み、一気に飲み込む。食道から胃の方へ、錠剤がゆっくりと降ってゆくのを感じる。気持ち悪さを感じて一瞬吐きそうになったが、何とか堪えた。

「飲んだよ」

 みぞおちの辺りをさすりながら、父と母に報告する。

「うん、良かった」

 母は頷いた。そして咲喜の目を見つめ、

「咲喜も、飲もうね」

 母の言葉に妹は素直に頷いた。

両親と民喜に見守られる中、咲喜は植物の種のようなその小さな錠剤を舌の上にのせた。コップを手に取り、ゆっくりと口をつける。コクっと頷いて飲み込んだ後、咲喜は口を小さく開けて見せた。

飲み込んだのを確認した父は、

「偉いぞ」

 咲喜の頭をなでた。

「何か体調がおかしくなったら、すぐ父さんたちに言うんだぞ」

 父は民喜と咲喜の顔を順に見つめて、言った。

「どうなっちゃう?」

 咲喜は言った。

「うん?」

「これ飲むと、体の中で、どうなっちゃう? 葉っぱが出ちゃうの?」

「芽は出ないよ」

 母はクスっと笑った。

「体の中で溶けた後、咲喜たちを守ってくれるのよ」

「そう」

 妹は納得したのかしていないのかよく分からぬ表情で、空のフィルムを見つめていた。

「父さんたちは飲まないの?」

 民喜が尋ねると、微笑んでいた父はふと真顔になって、

「俺たち大人はいいんだ」

 と答えた。

 

…………

 

父は民喜の肩にポンと手を置き、

「念のための検査だ」※※

と言って検査員の前に進み出た。

大きなマスクをつけ、白いレインコートのような防護服を着た二人の検査員が、頭から順に父の体に金属探知機のような機械の先端をかざしてゆく。

自分たちに背を向けている父は、直立不動の姿勢のままジッとしている。途中、検査員に促されて民喜と咲喜の方にクルリと向き直った。咲喜と視線があった父は、困ったような笑顔を浮かべた。

父さん……?

一瞬、父がそれまでの父でなくなってしまったかのように感じた。

検査は思っていたよりもすぐに終わった。所要時間は2分ほどだっただろうか。

「はい、問題ありません」

父は小さな白い紙を受け取って戻って来た。

「次、民喜」

父に促され、前に進み出る。するとすかさずマスクをした男性が機械を民喜の頭に振りかざした。ビクッとして、背中の筋肉が硬くなる。

検査員の男性はもう一方の手に持った機械の本体に表示される数値にチラチラと目を遣りながら、素早く全身の検査をしていった。後ろでもう一人の検査員が自分の背面の検査をしている気配がする。

検査器は民喜の体に直接当てられることはなかった。衣服から10センチほど離れたところをせわしなく動き回っている。

何もしていないはずなのに、民喜は何か後ろめたさのようなものを感じた。

途中、体の向きを変えるように促された。後ろを向くと、まるで激しい痛みをこらえているような顔つきで自分を見つめる母と目が合った。

母さん……?

検査員の男性が体をかがめ、だんだんと姿勢を低くしてゆく。民喜の靴の先まで計り終えると、

「手の平を見せてください」

 立ち上がり、淡々とした口調で言った。

右手の手の平と甲、左手の手の平と甲を順に見せる。それぞれに検査器をかざした後、

「はい、問題ありません。お疲れ様でした」

検査終了の旨が記された小さな紙を渡された。紙を手にした民喜は素早くその場を離れた。一秒でも早く、この場を離れたかった。

母が同じように検査を受けている様子を眺めながら、民喜はふと眩暈のようなものを感じた。

一体何が起こっているのか、まったく理解することができない。いま目の前にある世界は、これまで民喜が知っている世界と一見同じようでありながら、まったくその表情を変えていた。

まるで今まで慣れ親しんでいた世界の表層がパッと剥ぎ取られてしまって、その剥ぎ取られた部分から「ホウシャノウ」という陰惨なものが勢いよく噴き出ているような――。

のど元が締め付けられたようになってくる。自分たちはどこか間違った世界に入り込んでしまっているのではないか、と思う。

動悸がし、吐き気がしてくる。

胃の中が重苦しい。気持ち悪い、吐きそう。息も苦しい……。

父さん、母さん……。

 

…………

 

 はあ、はあ、はあ……。

激しく呼吸をする中、民喜は我に返った。

一瞬、ここがどこなのか、分からなくなる。足元を見ると、布団が見えた。辺りをキョロキョロと見渡す。コンビニ弁当の容器、ビールの空き缶、パソコンが載った机、閉めきられたカーテン……。ここが東京のアパートの部屋の中だということに気づく。

みぞおちの辺りをさすりつつ、民喜はゆっくりと布団の上に横たわった。全身の血液がドクドクと激しく脈打っているのを感じる。

これまでまったく思い出すことのなかった事故直後の光景が、自分の意思とは別に突然よみがえってきた。次々と、まるで外から自分に襲い掛かってくるように――。

 

 

 

安定ヨウ素剤:原発事故が起こった際、甲状腺への内部被ばくを避けるために服用するもの。服用対象は基本的には40歳未満。特に子どもたちに服用させることは絶対に必要。

しかし、福島第一原発事故の直後、国・県は第一原発周辺の自治体に対し、安定ヨウ素剤の服用指示を出さなかった。一部の自治体(三春町・富岡町・双葉町・大熊町)は国・県からの指示を待たずして、自主的に安定ヨウ素剤の配布と服用指示を行った。

 

※※検査:事故直後、福島県内の避難住民に対して行われた体表面スクリーニング検査のこと。衣服や皮膚に付着した放射線量を測定し、基準値を超えた場合は、必要に応じて全身除染や緊急被ばく医療を処置する。ただし事故直後、その基準値が急遽、従来の13000cpm10倍の10cpmにまで引き上げられた。結果、10cpm未満の人に対しては何の除染も行われなかった検査会場もあった。

 

 

参照:

study2007『見捨てられた初期被曝』(岩波書店、2015年)

北村俊郎『原発推進者の無念 避難所生活で考え直したこと』(平凡社新書、2011年)

 

 

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作者:鈴木太緒(すずき・たお)

   岩手県花巻市在住。猫3匹と同居。

お問い合わせ:neanderthal.no.asa@gmail.com