5、

しばらく走り続けていると、大学へと続くいつもの道に出た。

立ち止まり、ひとまず電柱の陰に隠れる。息が切れ、頭がクラクラとする。腰の骨の辺りにズキズキと痛みを感じる。脳裏に白衣を着たイノシシ人間の姿がよみがえってくる。

あいつは手に刃のついた検査器を持っていた。もしかしたら、あれで俺の甲状腺を削り取るつもりだったのかもしれない。

その瞬間、咲喜の顔が脳裏に浮かんだ。

咲喜!

今頃、福島の実家の方にもあいつらが向かっているのではないか。

民喜は最寄りのバス停に向かって駆け出した。

咲喜が危ねえ!

そうだ、これから、東京駅に向かわなくてはならない。特急に乗って、一刻も早く妹のもとに駆けつけなくてはならない。

咲喜を守らねばならない――民喜はそう決意していた。

はあ、はあ、はあ、はあ……。

必死で走る自分の耳に、

「甲状腺を削り取って、なかったことにする」

という声がどこかから聞こえてくる。

咲喜だけじゃない、翼も危ねえ。福島中の子どもたちが、みんな……。

脇腹が痛くなってきたが、痛みを堪えて走り続ける。のど元に刃が突き付けられている咲喜と翼の姿が浮かんでくる。鮮血が飛び散るイメージが浮かび、思わず目を瞑った。

最寄りのバス停に着く。キョロキョロと辺りを見回す。バスはまだ来ない。早く、早く! 地面をドンドン何度も踏みつける。

 ふと民喜の頭に

国家プロジェクト

という言葉が浮上した。国と電力会社が結託し、放射能の影響の証拠を隠滅しようとしている――その着想が民喜の頭の中に閃光のようにひらめく。さっきのイノシシ人間はその手先で……。

 そうか、そういうことか! それで、手に「あれ」を持ってたんだ。放射能による被害の証拠を、一切合切、「なかったこと」にするために……!

様々な事柄が頭の中で一気につながり始めたように感じる。これまでの記憶が芋づる式につながって、意識の上に引き出されてゆく。

それで俺を以前から、陰で付け狙っていたのか。大学の構内で、コンビニで、アパートの近辺でも……。

これまでの自分の理解を超えた出来事の背後には国家権力による策謀があったのだ、ということに思い至る。原発事故とそれによる放射能の問題をすべてなかったことにする「国家プロジェクト」が――。

「あなたがそんな人だと思わなかった」

 母の失望したような低い声が聞こえてくる。

「うるせえなあ。だから言ってるだろ。そうじゃねえって。おめえの頭がおかしくなってんだ」

父が苛立った調子で言い返すのが聞こえる。玄関のドアを開けて父が外に出て行く音がし、静まり返った部屋に母のすすり泣く声がこだまする。隣の和室で妹もポロポロと大粒の涙を流している……。

放射能の影響が無理やりなかったことにされる中で、父と母の関係性はズタズタに引き裂かれていった。

「お医者さんが言うには、咲喜の甲状腺にね、1ミリ程度ののう胞が多発している、って……」

母が涙声でしゃべっている。放射能の影響がなかったことにされて放置される中で、翼はB判定になり、咲喜はA2判定になってしまった。

「あなたたちの体が、心配なの」――母は涙に濡れた手で民喜の手をにぎった。

 駿の声も聞こえる。

「民喜、俺、くやしい」――駿はそう呻いて、電話口で泣いている。

ちくしょう!

激しい怒りが民喜の内に湧き上がってくる。

今までのことはみんな、国全体による策謀だったのか。

怒りは民喜の内に燃え上がり、それは炎のようなものとなって頭上に噴出した。

ゆるせねえ! 大事な家族や親友たちをこんなにも傷つけて……。

 

しかし――虚空を睨み付けながら、民喜は懸命に頭を回転させた。しかしどうしたら、あの恐ろしいイノシシ人間に立ち向かうことができるのだろう? どうしたら、あの恐ろしい――。

 バス停の前で必死に頭を働かせていると、背後から視線を感じた。ハッとして振り返る。するとすぐ後ろに、自分を睨み付けるイノシシ人間の巨大な頭があった。

…………消えろ

民喜は叫び声を上げ、来た道を全速力で戻り始めた。目の前を歩く学生とぶつかりそうになる。よろめきながらも何とか走り続ける。

「消えろ、消えろ、消えろ、消えろ」

 刃のついた検査器を手に、イノシシ人間が後ろから追ってくる。迫り来るイノシシ人間はいつしか集団と化していた。イノシシ人間の集団は他の通行人には目もくれず、民喜一人を追いかけてくる。やはりこいつらは福島から来た自分だけを狙っているようだ。

はあ、はあ、はあ、はあ……。

駅に向かうためのバス停からどんどんと離れていってしまう。このままでは特急に乗ることができず、咲喜たちのもとに辿り着けない。

消えろ、消えろ、消えろ、消えてしまえ。はじめから存在しなかったかのように――

命の危険と恐怖を感じながら、

(遂に本音が出たな)

と思う。

これがお前らの目的なんだ。原発事故で被ばくした俺らの存在そのものをなかったことにすることが――。

どれだけ走り続けても、イノシシ人間たちの追跡は途絶えることはない。時間とともにますますイノシシ人間の集団は数を増幅し、その規模を拡大していった。自分を捕まえるためのネットワークはいまや東京全体に張り巡らされているのだと感じる。

はあ、はあ、はあ、はあ……。

胸が張り裂けそうに苦しい。呼吸をする度に気管支の辺りでヒーッ、ヒーッと悲鳴のような音がする。

上空から気配がしたと思ったら、ヘリが自分の真上を飛びながら追ってくるのが見えた。俺はもうすっかり、イノシシ人間たちに包囲されてしまっている……。

ヤツらの圧倒的な力を前に、自身の存在はまるで一匹の小さな羽虫のようだった。

絶望が民喜を捕らえる。体が重くなってゆく。足がふらついて、転びそうになる。

ちくしょう! すまねえ、咲喜。すまねえ……。

「民喜君!」

 どこかから、自分を呼ぶ声がした。見ると、向かいの歩道から明日香が手を振っていた。民喜はハッとして立ち止まった。

 明日香さん!

彼女は慌てた様子で、道路を渡ってこちらに来ようとしている。

「明日香さん、駄目だ、逃げて!」

 次の瞬間、背後に衝撃を感じ、目の前がフッと暗くなった。

ああっ、しまった、捕まっちまった!

消される!

「民喜君!」

 視覚が失われてゆく中で、明日香の声がした。

「民喜、大丈夫か!」

 山口凌空らしき人物の声も聞こえてきた。

どうやら自分は歩道の上に倒れてしまっているらしかった。イノシシ人間はどこだ……?

……眼前がグルグルと凄まじい勢いで回転している。一瞬、幾つかの人影が自分を覗き込んでいるのが見えた。

誰かが民喜の手を強く握った。その暖かな手はイノシシ人間の手ではなかった。民喜はその手を強く握り返した。

……すぐ耳元で明日香さんの声と息遣いが聞こえる気がする。誰かの手を握りしめながら、すぐそこに迫るイノシシ人間の危険について懸命に訴えようとしたが、もはや断片的な言葉しか出てこなかった。

目の前がどんどんと白くなってゆき、民喜の意識は途絶えた。……

 

 

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作者:鈴木太緒(すずき・たお)

   岩手県花巻市在住。猫3匹と同居。

お問い合わせ:neanderthal.no.asa@gmail.com