3、

病室の入り口の辺りから、誰かがヒソヒソと話をする声が聞こえてくる。小声でしゃべっているので話の内容は分からない。

目を開ける。電灯が消されて、部屋の中は真っ暗だ。青白い微かな明かりが廊下の方から漏れ出て来ている。

病室の中には両親も咲喜もいない。駿と将人もいなかった。不安な気持ちが民喜を捉える。カサコソ……とベッドの下を何かが走り去ってゆく音が聞こえた。ネズミか何かが入り込んでいるのだろうか。

体を動かそうとするが、何かに固く縛りつけられているかのように身動きを取ることができない。

誰かが入って来る気配がする。薄暗闇の中に、白衣がぼんやりと浮かび上がる。

「今から検査を始めます」

若い女性の声がした。この病院の看護師のようだった。さらに数人の看護師が音もなく病室に入って来て、ベッドに横たわる民喜を取り囲んだ。暗闇の中に白衣だけが浮かび上がり、彼女たちの顔までは見えない。

「今から検査を始めます」

 再び女性の声がして、のど元にヒヤリとする感触が走った。ジェルを塗り付けられたらしい。ゾゾッ背筋に寒気が走る。他の看護師たちはモニターらしきものをベッドの傍らに配置し始めている。

 廊下の方から足音が聞こえてくる。体の重苦しさがさらに増してゆく。足音はベッドの近くまで来て、止まった。と思うと突然、目の前にイノシシの頭が現れた。

 胸の内で叫び声を上げるが、ヒューッという呼吸音しか出てこない。イノシシは体は人間の形をして、白衣を着ている。手には刃のついた検査器を握り締めている。

 そう言えば、俺はこの怪物から逃げていたんだ!

民喜は思い出した。

必死に逃げようとするが、体が動かない。手足にグルグルとチューブが巻き付けられているようだった。

「今から検査を始めます」

 看護師の声がする。

嘘だ! 検査なんかじゃねえ! 俺の甲状腺を削り取ろうとしているくせに――。

イノシシ人間が自分の方に顔を近づけて来る。恐怖で体が縮み上がる。突き出た鼻から出される息が頬に吹きかかる。まるでドライヤーを間近で吹きかけられているように熱い。息を止め、必死で顔を背けようとするが、首すら自由に動かすことができない。怪物と目が合う――吊り上がった目の中は真っ暗で、何の光も宿っていなかった。

イノシシ人間はしばらくジッと民喜を眺めた後、顔を引っ込め、モニター下のキーボードを指で叩いた。モニターの画面が青白く発光する。画面上にはびっしりと白い文字が浮かび上がっている。自分の個人情報のすべてが書き込まれているのだ、と感じる。イノシシ人間は慣れた様子でカチャカチャと素早くキーボードを打ち鳴らした。すると画面に大きな文字で、

佐藤民喜 消去

との文字が浮かび上がった。

消去……?

何のことか分からない。しかし数秒後、その意味を理解し、全身に戦慄が走った。

看護師がのど元に再度冷たいジェルを塗り付けてきた。と思うと、イノシシ人間は稲妻のような速さで民喜ののど元に検査器をあてがった。

「やめろーっ!」

民喜はすべての力を振り絞って叫んだ。

大声に驚いたのか、イノシシ人間は一瞬、刃先を民喜ののど元から離した。フッと体が軽くなり、手足からチューブがスルスルと外れた。すかさず民喜はベッドから飛び降り、看護師たちの脇をすり抜けて病室の外へと駆け出した。

「待ちなさい!」

 後ろから看護師たちの声がする。裸足のまま暗い廊下を走ってゆく。先は真っ暗で、何も見えない。

出口はどこだ?

 後ろからイノシシ人間が追ってくる気配がする。

「待て!」

 野太い男性の声がする。振り返ると、10メートルほど後ろからイノシシ人間が検査器を手に追いかけてきていた。

階段があったので、下へと降りてゆく。

「待て!」

すぐ後ろから声がする。

足元がブヨブヨとした感触になり、足を取られそうになる。よく見てみると、眼下にあるのは階段ではなく、黒いフレコンバックの山だった。

消えろ、消えろ、消えろ、消えろ」――

 背後からイノシシ人間の声がする。

「もう止めてくれ!」

民喜は涙声で叫んだ。

袋を踏みつける度に灰色の煙が噴き上がる。斜面は延々と続いており、どれだけ降っても終わりが見えてこない。

やはりこの陰惨なヤツらから俺は一生逃れられないのか――絶望感が民喜を捉えた。……

 

目の前を虫のようなものが飛んでいるなと思ったら、雪だった。薄暗闇の中を粉雪が舞っている。

気が付くと民喜は海岸線を歩いていた。防波堤の向こうには、夜の海が広がっている。

今夜は随分と冷えているようだった。民喜は薄い患者衣を着ているだけで、コートもマフラーも持っていない。

急いで、着替えを用意して)――

怪物はいつの間にか消えていた。しかし安心はできない。奴はまたすぐに自分を見つけて追って来るだろう、と思う。

民喜は足を速めた。できるだけ、あの怪物から離れなければならない……。

どこかから車のクラクションが聞こえてくる。見ると、丘陵地を走る車道がたくさんの車で埋まっていた。粉雪が舞う中、渋滞の列がはるか向こうまで、果てしなく続いている。

みんな、何かから逃げている……?

すると突然、白い防護服を着た人が現れ、民喜の前を横切って車の誘導をし始めた。

どうしてあの人、あんな恰好してるの?)――

 隣に座る咲喜が不思議そうに男を指さす。

意識がフッと遠のいてゆく感覚が民喜を襲った。……

 

民喜は埋立地のような場所に迷い込んでいた。すぐ後方には海が広がっている。足元には木片やコンクリートの断片が散乱している。

ここは一体どこだろう?

胸騒ぎを感じ、この場所から離れたいと思ったが、どこへ向かったらいいのか分からない。とりあえず、瓦礫を踏まないように気をつけながら前へと進んでゆく。

前方に何か巨大な物体が鎮座しているのが見える。魚が腐ったような悪臭が鼻を突く。民喜は思わず鼻を手で覆った。

暗闇に目が慣れてくると共に、巨大な物体はだんだんとその姿と形を現し始めた。月明かりの下、目の前に立ちはだかるそれは、仰向けになった巨大なネズミたちだった。

「ワッ!」

全長数十メートルはあろうかという巨大なネズミが4匹、大地の上にひっくり返っている。一番手前にいるネズミは腹部がパッと剥ぎ取られて赤黒い内臓が露呈しており、そこから灰褐色の煙が立ち昇っている。

身がすくんでしまって、動けない。

大ネズミは死んでいるのか、それとも瀕死の状態であるのか。ヘビのような形状の尻尾はピンと起立し、鉄塔のように夜空に高くそびえ立っている。

眼前の光景から目が離せぬまま、民喜はポケットの中をまさぐっていた。

あれは、どこにいっただろう? あの、赤色の透明な包装フィルムに入った、丸い種のような……。

 

 

念のため、飲んでおいて。民喜は2)――

慌ててズボンのポケットを探るが、何も入っていない。あれを2錠、飲んでおかないと……。

咲喜は、1錠だけ

民喜、ゆっくり、1粒ずつでいいからな。慌てんな)――

両親がくれたはずのあの丸い錠剤は、どこかに置いてきてしまったのか、見当たらなかった。

一刻も早く、この場から離れなくては……!

頭の中で声がするが、体が思うように動かない。

金縛りにあったように固まった自分の体の周りを検査器が目まぐるしく動き回っている。

はい、問題ありません。お疲れ様でした)――

検査員から小さな紙を渡される。激しい痛みをこらえているような表情で自分を見つめる母と目が合う――。

のど元が締め付けられたようになってくる。動悸がし、吐き気がしてくる。

胃の中が重苦しい。気持ち悪い、吐きそう。息も苦しい……。

父さん、母さん……)――

 

 間もなく、3匹目の大ネズミの様子がおかしいことに気づく。風船が膨らんでゆくように腹部が膨張し始めている。

 見る見るうちに、ネズミの腹ははち切れんばかりに膨らんだ。皮膚の表面がメリメリと裂けてゆく音が聞こえ、もう限界であることが分かった。

「やめてくれぇ!」

民喜は目を瞑り、叫んだ。次の瞬間、爆発音と共に民喜は後方へ吹き飛ばされた。振動と爆発音に紛れて、

オーオーオーオー

オーオーオーオー

全地を貫く絶叫が民喜の耳に届いた。

コンクリートの上に仰向けに倒れ込んだまま、恐る恐る顔を上げる。肋骨が露呈したネズミの腹部から、腐ったリンゴのような巨大な内臓が飛び出している。赤黒く発光するその内臓から、灰褐色の煙が勢いよく上空に立ち昇っている。煙は龍のごとくに夜空を駆け上がり、たちまち数百メートルもの高さにまで達した。

 民喜はヨロヨロと立ち上がった。夜空へ立ち昇る巨大な噴煙を呆然と眺める。ボロボロと目から涙が溢れて来る。

「ウッ……」

全身から力が抜けてゆく。民喜は地面に座り込み、声を上げて泣いた。取り返しのつかないことが起こってしまったのだ、と思う。……

直ちに人体に影響を与える数値ではない……

……この点についてはご安心いただければと思います

……外で活動したらただちに危険であるという数値ではありません)――

画面の中で青色の服を着た中年の男性が話をしている。

父は顔を上げて、

晶子、とりあえず、一安心だ

 ホッとした表情で母に声をかけた。

しかし母は張り詰めた表情のまま、別の方を見つめている。

「ウウッウッウッ……」

 民喜は地面に額をこすりつけて泣き続けた。……

 

何だろう……何か音がする……。

声……? 呻き声……?

「ウ……ウウ……ウ……ウ……」

自分の泣き声に紛れて、不気味な呻き声が聞こえてくる。

民喜はハッとして顔を上げた。すると2匹目の巨大ネズミが前足を痙攣させている様子が目に飛び込んできた。

仰向けになったネズミは真っ赤に血走った目を見開き、人間の手のような形をした前足を小刻みに振動させている。体の内部で何か致命的な異変が生じていることが分かった。ネズミは断末魔の呻き声を上げた後、口から白煙を吐き出した。まるで空へ向かって激しく嘔吐しているかのようだった。

吐き出された大量の白煙が風に流され、四方へと離散してゆく。民喜の方にも煙が吹きかかって来る。目の前が真っ白になる中、民喜は鼻と口の上に手を当てて懸命に息を止めた。

絶対に息をしてはならない。絶対に、これを体の中に入れてはならない――。

これを吸い込んだら、たちまちの内に死に至ることを民喜は直感していた。

 鼻と口に手を当てたまま後ずさりをし、震える足でその場から離れようとする。そのとき、背中に激しい衝撃が走った。コンクリートの上に倒れ込む。振り返ると、目の前に自分を睨み付けるイノシシの頭があった。

しまった!

上半身にイノシシ人間が馬乗りになってくる。手足を振り回してこの怪物から逃れようとするがまったく歯が立たない。火のように熱い鼻息が民喜の顔に吹きかかる。

…………消えろ

 刃のついた検査器がのど元にあてがわれる。目を瞑った瞬間、民喜の耳にけたたましい悲鳴が響いた。

 

 

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作者:鈴木太緒(すずき・たお)

   岩手県花巻市在住。猫3匹と同居。

お問い合わせ:neanderthal.no.asa@gmail.com