5、

 何をやってる、早く起きろ!

 頭の中でもう一人の自分が叫び続けている。でもどうしたことか、体が言うことをきかない。

 最終練習が始まる10時半が近づいてきていた。今日は10時半から西棟で最後の調整をして、午後から定期演奏会を行うホールへと向かう予定だった。もう自分以外の部員は皆、教室に集まって練習の準備をしているだろう。

 何をやってる、早く起きろ!

悲壮な声でもう一人の自分が叫ぶ。が、布団から起き上がる気力が湧いてこない。

 

 昨晩は夜の1時前には横になった。度数9パーセントの酎ハイを2本飲んで……。けれども嫌な予感がしていた通り、ほとんど一睡もできなかった。直前に迫っている演奏会の本番のことを考えれば考えるほど、目はますます冴えていった。缶酎ハイの影響か時折頭がズキズキと痛み、軽く吐き気も感じた。それでも我慢して寝返りを繰り返しながら夜明けまで目を瞑り続けた。

 アラームが鳴った朝の9時には、民喜はすでに疲れ切っていた。何とかして起き上がろうとするのだが、体が言うことをきかない。まるで体を起き上がらせるための神経が何者かによってプツッと切断されてしまったかのように、体に力が入らなかった。早く起きなければ、と焦りを感じつつ、民喜はそのまま布団の上に死人のように横たわり続けていた。

目を開け、視線だけ動かして傍らの時計を見遣る。

練習開始の10時半。

民喜は泣き出したい気持ちになった。

 開始時間を15分ほど過ぎた時、ラインの着信音が鳴った。ギクリとする。きっと中田悠からの電話だろうと思う。

息を潜めて、着信音が途切れるのを待つ。ずいぶんと長く鳴り続けたように感じた後、ようやく音は途切れた。すぐ後に今度はラインメッセージの短い着信音が鳴った。またギクッとする。

中田悠やテナーパートの皆にどう説明すればよいのか分からなかった。

しばらくして、再び電話の着信音が鳴り始めた。やはり手に取らずにそのままにする。いまの状況を部員の皆にどう説明したらいいのだろう……?

一つだけ民喜が理解していたのは、もう自分には定演に出る力は一切残っていない、ということだった。

 

本番まであと1時間という頃、民喜は布団から手を伸ばしてスマホを手に取った。連絡だけはしておかなくてはならない。せめて、「行けない」という連絡だけは……。

スマホのラインには中田悠からだけではなく、同じテナーパートの榎本からも、そして部長の妙中真美からも複数の不在着信とメッセージが届いていた。 

画面を眺めながら、改めて頭から血の気が引いてゆく。

横になったまま、民喜はいまあるすべての力を振り絞って中田への返信を入力した。

――どうしても行けない事情ができてしまって、定演を欠席します。本当にごめんなさい

送信ボタンを押す。全身から力が抜けて行く。スマホが手から布団の上にすべり落ちる。目を瞑り、

(もう終わった――)

と思う。

 

どこかから聴こえるラインの着信音に民喜は目を覚ました。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。部屋の中はすでに真っ暗だった。

枕元の時計を見る。夕方の6時前。

定演はもうすっかり終わってしまっている時間だった。床に転がっているスマホを民喜は恐る恐る手に取った。暗闇の中、青白く発光する画面には、

永井明日香

と表示されていた。

ハッとする。電話に出よう――と思った瞬間、体が固まってしまった。今日のことを彼女にどのように説明していいのか分からなかった。

明日香さんの声が聞きたいと思う。でも、いまは電話に出ることはできない……。

民喜はゆっくりと上半身を起こした。ずっと横になっていたせいか、背中と腰にビリッと電流が流れたような鈍い痛みが走った。

震える手でスマホを握りしめながら、電話の着信音が途切れるのを待つ。プロフィール写真のトラ模様の猫がジッとこちらを見つめている。

しばらくして着信は途切れた。そのまま放心したようにスマホの画面を眺めていると、明日香からメッセージが届いた。

 ――定演、無事に終わりました。民喜君、大丈夫ですか。心配しています

ラインの文面を見て、思わず目に涙が滲んできた。少なくとも明日香さんは自分のことを怒っていないのだ、ということが分かった。しかも、明日香さんはこんな自分のことを心配してくれている……。

――メッセージありがとうございます。この度は休んでしまい、本当にごめんなさい

とだけ返信をする。するとすぐに既読になり、彼女からメッセージが届いた。

――返信ありがとうございます。お返事をもらえて、ホッとしました。お休みしたことは、全然気にしないでください。それより、体調は大丈夫ですか?

民喜は眼鏡を外して、目に滲む涙をTシャツでぬぐった。

――体調、何とか大丈夫です。心配かけてごめんなさい。ありがとう

そう返事をしつつ、本当はもう大丈夫ではないことは自分でも分かっていた。

 

 

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作者:鈴木太緒(すずき・たお)

   岩手県花巻市在住。猫3匹と同居。

お問い合わせ:neanderthal.no.asa@gmail.com