3、
仕事から戻ってきた父は、いつものようにまずリビングの仏壇に向かった。手際よくロウソクに火をともし、線香をあげて手を合わせる。父が立ち上がると、線香の香りが漂ってきた。
リビングの仏壇は、民喜たち家族がいわき市に移ってから新しく作られたものだ。仏壇の位牌の手前には、祖父と祖母の写真が飾られている。小さな仏壇ではあるが、台の上にはお菓子や果物、祖父が好きだった日本酒などが絶えることなく供えられている。そして、復興計画が綴られたあのファイルも……。
すでに夕食を終えていた民喜は、咲喜の夏休みの宿題を手伝っていた。
「おー、咲喜。兄ちゃんに宿題見てもらってるか」
洗面台から戻ってきた父は、嬉しそうな表情で咲喜の宿題を覗き込んだ。
「うん」
「良かったな」
母は温め直したおかずをテーブルに並べている。父は500ミリリットルの缶ビールを手に、テーブルに座った。
「あー、今日も蒸し暑かった」
誰に言うともなしにそう呟き、早速缶のふたを開けて飲み始めた。
民喜が手伝っていたのは算数の宿題だった。民喜の得意教科は英語で、算数はどちらかと言えば苦手だが小学5年生の問題ならまだ解くことができる。
しばらく無言で夕食を食べていた父は、
「日曜日、じいちゃんとばあちゃんの墓さ行ってきた」
民喜と咲喜に声をかけた。
「お墓参り?」
分数の問題に苦戦していた咲喜は顔を上げ、父の方を見た。
「んだ、お盆だったからな。久しぶりに墓さ掃除して、民喜と咲喜の分の線香も供えてきたぞ」
父方の家の墓は父の実家から歩いて10分ほどのお寺の境内にある。一昨日の日曜日、父はあの町に行って一人で墓参りをしてきたらしい。墓地のある区域は居住制限区域に指定されている。
あの事故が起こってから、民喜と咲喜は一度も墓参りに行くことができていなかった。そう言えば、先日故郷を訪ねたとき、お墓の様子を見に行かなかったことに思い至った。
仏壇の前に飾られている祖父母の写真を見つめる。満面の笑みで映る祖父と祖母。亡くなる少し前に撮られた写真であるはずだが、記憶の中にある二人より幾分若々しく感じる。
祖母の多恵子は2000年、68歳の若さで亡くなった。脳梗塞による突然の死だった。祖母が亡くなる2カ月前、いまの場所に2階建ての新居が完成した。近い将来両親と同居できるようにと、父が建てたものだった。その念願のマイホームが完成して間もなく、祖母は亡くなってしまった。
祖母が亡くなり独りになった祖父の民治は、民喜たちと一緒に新居に移り住んだ。その時すでに祖父はがんが再発していた。
祖父が民喜たちと一緒に生活したのは、結局、半年の間だけだった。2001年6月の大雨が降る日、祖父は亡くなった。享年71歳。最期の1か月は祖父はホスピスで過ごした。
祖父と暮らしたその半年間のことはよく覚えている。
今は民喜の部屋になっているところが祖父の部屋だった。民喜はその部屋で祖父の膝の上に座ってアニメを観るのが好きだった。そのとき、民喜はまだ6歳だった。
「民喜」――
じいちゃんが自分を呼ぶ声がよみがえる。少し甲高い、ひょうきんな感じのする声。まるですぐ近くで祖父が自分を呼んだかのように感じた。線香の香りに混じって、祖父の懐かしい匂いを嗅いだ気がした。
「町の様子も見てきたべ」
父の声で、民喜は我に返った。自分の方を見つめる父と目が合う。
「町のあちこちで、除染さ頑張ってくれてる。ほんとにありがてえことだ。……んだけんじょ、一つひとつ手作業で、気が遠くなる作業だ」
父は缶ビールを飲み干し、トンとテーブルの上に置いた。
「家も見てきた」
父は視線を別の方へ移し、
「家はやっぱり、ネズミの被害がひでえな。6月に行った時より、ひどくなってる……。ネズミ捕りシートさ置いてきたけど、あれじゃ、どうにもなんねえべ……。2階の廊下の奥で雨漏りもしてるようだ。どうしたらいいべか……」
父はもはや民喜と咲喜の方ではなく、どこか別のところを見つめ、独り言のように家の中の様子を呟いていた。台所に立つ母は黙ったまま、父の呟きには何も答えない。
民喜はだんだんと胸が苦しくなり、父から目を逸らした。