2、
「民喜君は、映画よく観るの?」
明日香が民喜の方に顔を向けて言った。顔を向けてはいるが目は恥ずかしそうに伏せたままだ。
「いや、普段は、そんなに」
そんな彼女の横顔を見つめつつ、民喜は答えた。
「明日香さんは?」
「たまにDVD借りてきて観ることはあるけど。映画館はそんなに行かないかな」
「そっか」
歩きながら、普段はそんなに映画を観ないのに、今回映画に誘ったことが不自然に思われるかもしれない、と思う。たまに映画館で映画を観る、と答えた方がよかっただろうか。いや、でもそうすると明日香さんに嘘をついてしまうことになる……。
あれこれ考えている間に、商店街のはずれまで来てしまった。左に曲がるともうすぐそこが映画館だ。あまり会話も弾まないまま、映画館に到着しようとしていた。
都道7号線に出る。涼やかな風が民喜と明日香の髪を揺らした。
「あの、すぐあそこが、映画館」
50メートルほど前方に見えている建物を指さす。
「うん」
明日香は頷いた。
映画館に向かって歩き出すと、花のような香りが民喜の鼻をくすぐった。すぐ隣を歩く彼女から漂ってくる香りだった。自分はいま、本当に明日香さんと一緒に吉祥寺を歩いているのだ、と思う。
胸の内に彼女とデートをすることができていることの喜びがジワジワと込み上がってきた。
「えーと、『キングスマン』、大学生二人でお願いします」
財布から学生証を取り出し、窓口の中年の女性に見せる。
「はい、お一人様1500円になります」
財布から千円札と500円玉を取り出しながら、(あれっ、こういう場合、映画に誘った自分が二人分支払うべきだろうか)と思う。
何度もこの度のデートのシミュレーションをしていたにも関わらず、映画代をどうするかは考えていなかった。迷っている間に明日香は自分の学生証と料金を窓口の釣銭受けに置いてしまった。
建物の中に入る。昔ながらの雰囲気をそのまま残している、味のあるロビーだった。年代を感じさせる壁や床。駅に設置してあるようなプラスチック製のイス。自分は平成生まれだが、おそらくこのような雰囲気を昭和の雰囲気というのだろう。
「ちょっと、お手洗い行ってくるね」
そう言って明日香はロビーの端の方へ向かった。
やっぱり二人分支払った方がよかったのだろうか……。
判断がつかないまま、民喜はカバンからスマホを取り出した。見ると、将人からラインのメッセージが届いていた。
――グッドラック!
併せて特大のハートマークも送信されている。とりあえず、オッケーサインのスタンプを返信しておくことにする。
彼女が戻って来ると、
「明日香さん、何か飲む?」
と尋ねた。上映まではまだ15分ほど時間があった。
明日香は一瞬上を向いて考える表情をし、
「うーん、私は大丈夫。ありがとう」
「うん、了解」
民喜は自動販売機の前に行き、ホットコーヒーを購入した。
館内にはシアタールームは一つしかないようだった。すでにドアが開いていたので、二人で中に入る。
薄暗い館内にやはり年代を感じさせる朱色のカバーの座席が並んでいる。スクリーンはそれほど大きくない。映画館特有の匂いを嗅ぎながら、急なこう配の階段をゆっくりと降りてゆく。人はまだほとんど入っていないので、どの席でも座り放題だった。
「どこがいいかな」
明日香に尋ねると、
「うーん、じゃあ、あの真ん中の辺りは?」
彼女が指さしたちょうど真ん中の席に座ることにした。薄暗い館内において彼女の着るワンピースはさらに深い群青になっていた。
並んで座り、何も映っていないスクリーンを見つめる。明日香は前を向いたまま、小さく可愛らしい咳払いをした。左隣に座る彼女の体からまた花のような香りが漂ってくる。どうして女性はこんなに良い匂いがするんだろう、と思う。
少し手を伸ばせば、彼女の手に触れることができるほどの距離……。間近に彼女の存在を感じ、緊張と喜びとが民喜の体の内を駆け巡った。
コーヒーを一口すすり、前から話そうと決めていた話題を切り出す。
「あの、明日香さん」
明日香は民喜の方に顔を向けた。
「読んでみたよ、原民喜」
そう言ってカバンの中から文庫本を取り出した。
「あっ、原民喜さんの本。読んでくれたんだ。……ごめん、私まだ読んでない」
彼女が申し訳なさそうな顔をしたので、
「いや全然、大丈夫」
民喜は手を振った。
「原民喜さん、どうだった?」
「うん……」
民喜はコホン……と咳払いをした後、
「色々と心に残ったところがあるんだけど、特に印象的だったのは、《水ヲ下サイ》っていう言葉。作中に、詩として出て来るんだけど」
「あ、確か、その詩、合唱曲にもなってるよね。歌ったことはないけど、コンクールで別の学校が歌っているのを聴いたことある」
「あっ、そうなんだ。そう、個人的には《水ヲ下サイ》って言葉が特に印象に残った。原爆で被ばくした人々が発した言葉なんだけど……」
明日香は頷いて、民喜が手に持つ文庫本の表紙に目を遣った。表紙には一本のヒマワリの絵が描かれている。
原民喜についてもっと色々と彼女に伝えたいことがあるような気がしたが、うまく言葉が出てこない。
民喜はまたコーヒーを一口飲み、
「あと、これ、ありがとう。谷川俊太郎の詩集」
カバンからもう一冊、谷川俊太郎の詩集を取り出した。
「ごめんね。長い間借りっぱなしで」
「いや、大丈夫だよ。ありがとう」
明日香は微笑みながら詩集を受け取った。
「いいなと思う詩、たくさんあったけど、特にあの詩がよかった。ええと……」
民喜はすでに諳んじてしまっている詩の前半部を呟いた。
あの青い空の波の音が聞えるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい …
「あっ、『かなしみ』」
明日香が呟いた。
「そう、『かなしみ』」
明日香は本をパラパラとめくって、『かなしみ』が載っているページを開いた。
「わたしも、この詩、好き」
明日香は弾んだ声を上げた。今日初めて耳にした彼女の明るい声だった。
明日香の柔和な表情を見て、民喜は幾分ホッとした気持ちになった。
今日駅で会ったときから、心なしか、ずっと彼女の表情が硬いのが気になっていた。大学で会っているときの柔らかな雰囲気が、今日の彼女からはあまり感じ取ることができないでいた。何か自分が気に障ることをしてしまったのではないか、と民喜は気が気ではなかった。
「この詩のおかげで、色々と大切なことを思い出したんだ」
「そうなんだ」
明日香はぱっちりとした切れ長の目で一瞬民喜を見つめ、すぐに目を伏せた。
この詩集は民喜にとって、まさに「お守り」だった。故郷の町を4年ぶりに訪ねたあのときも、彼女から借りたこの詩集をカバンの中に入れて、大切に持ち歩いていた。
胸の内を様々な熱い想いが駆け巡っているのだが、やはりうまく言葉にして伝えることができない。何も言えないまま、民喜は小さな咳払いを繰り返した。
ブーッ――
上映開始時間を知らせる長いブザー音が鳴った。民喜と明日香はハッとしたように正面のスクリーンを見つめた。素早く照明が消え、暗闇が二人を覆った。
*引用:谷川俊太郎『かなしみ』(『谷川俊太郎詩選集1』所収、集英社文庫、2005年、15頁)