5、
――どんな感じ? 手ぐらい握れた?
ハートのスタンプと共に将人からラインのメッセージが届いていた。
――いや。今日は特に。明日香さん、ちょっと体調悪そうだったし……。サンキュー。
駅のホームの椅子に座って電車を待っていた民喜はそう返信し、スマホをカバンの中にしまった。
「民喜君、今日はありがとう」
「こちらこそ、ありがとう」
「じゃあ、また明日」
「うん、また明日」
明日香は微笑みながら手を振って、足早に階段を上って行った。この後、駅に隣接するアトレで買い物をする用事があるとのことだった。
階段を上る彼女の後姿を見送る。彼女の群青のワンピースはすぐに人ごみに紛れ、見えなくなった。
井の頭公園から駅に戻っても、食事の誘いを切り出すことはできなかった。何だか、そういう雰囲気ではないような気がした。彼女に絵を見てもらうという一番の目的は果たすことができたから、その点は良かったのだけれど――。
「まもなく、3番線に快速高尾行きが参ります。危ないですから、黄色い線までお下がりください」
ホームにアナウンスが流れる。民喜はゆっくりと立ち上がり、スーツ姿の中年男性の後ろに並んだ。
明日香と別れてから、民喜は彼女の涙について考え続けていた。あの涙は、どういう涙だったのだろう?
桜並木で『朝』を歌ってくれたときも、彼女は涙を流していた。
また朝が来てぼくは生きていた ……
戸惑い、いとおしさ、切なさ――様々な感情が胸の内を駆け巡る。
色んな感情が錯そうする中で民喜が理解していたこと、それは、彼女もまたひどく辛い経験をしてきたのだろう、ということだった。
明日香さんもまた、人には言えない辛さを抱えているのかもしれない。大学ではそのような素振りは一切見せないけれど……。
快速高尾行きの電車がホームに到着する。車内に入り、出入り口のドアのすぐ近くに立つ。
「3番線、ドアが閉まります。ご注意ください。……」
寄りかかるようにして吊革に掴まり、もうすっかり日が沈んだ窓の外を眺める。
そう言えば、俺は明日香さんについて何を知ってるんだろう?
民喜はふとそう思った。
今日、明日香さんに彼氏がいるかについても、はっきりと確かめることができなかった。
自分が知っていること――。
同じ東北出身であること。歌が好きであること。谷川俊太郎の詩が好きであること。実家で猫を飼っていること。
民喜は過ぎ去ってゆくビルの屋上のネオンに目を遣った。
そして、胸元に小さなほくろが2つあること……。
それだけ?
自分は明日香さんについて、ほとんど何も知らないことに思い至る。
そう言えば、俺は彼女についてまだほとんど何も知らないのかもしれない。全然理解することができていないのかもしれない。でもだからこそ、彼女についてもっと知りたい、と思う。
窓ガラスに映る自分自身と目が合う。
と同時に、彼女が抱える苦しみを知ってしまうことに対してどこか恐れも感じた。
突然、激しい疲労感が民喜を襲った。思わず吊革から手を放し、空いている席に座る。俯いて、目を閉じる。
瞼の裏に、涙を流す彼女の顔が浮かんでくる。
クスクス……という笑い声に民喜は顔を上げた。
車両の連結部の近くに自分を見ながら笑っている数名の若い男女がいることに気づく。同じ大学の誰かかと思ったが、彼らの顔に見覚えはなかった。
民喜は顔を逸らし、前を見つめた。気のせいだろう。そう思ったが、再びクスクス……という笑い声が聞こえた。そっと彼らの方を盗み見ると、今度は明らかに自分を見て笑っていた。頭からサッと血の気が引いてゆく。
クスクスクスクス……。
笑い声は民喜の頭の中でエコーを帯びながらどんどん増幅されていった。動悸がし、胸が苦しくなってくる。
2駅先の武蔵境駅で降りるつもりが、いたたまれなくなった民喜は次の三鷹駅ですぐに下車してしまった。