3、
大学へと続く通りが夕陽で明るく照らし出されている――はずなのに、その明るさが感じられない。目に映る風景は色彩と奥行きを失い、まるで一枚のモノクロ写真のよう。グレースケールの風景の中を、かろうじて夕陽のオレンジが淡く発色している。
夕方になってようやく起き出した民喜は、力を振り絞ってコーラス部の練習へと向かった。
正門をくぐり、大学の構内に入る。定演はもう明後日、練習は最終調整の段階に入ろうとしていた。
大学の敷地に足を踏み入れた途端、首と背中の筋肉がみるみるうちに硬くなってゆくのが分かった。
「滑走路」の脇の歩道を100メートルほど歩いたとき、背中に誰かからの視線を感じた。振り返ろうかと思ったが、我慢してそのまま早足で歩き続ける。気のせいだろうと自分に言い聞かせる。が、視線は容赦なく背中の筋肉を圧迫してきた。
さらに数十メートルほど歩き続けていると、
「デモに参加しなかった」
と声が聞こえた。民喜はギクッとして、思わず立ち止まった。明らかに自分に向けられた言葉だった。
後ろを振り返ろうと思ったその瞬間、自転車に乗った学生が民喜を勢いよく追い抜いて行った。見知らぬ青年だった。彼が言ったのだろうか?
頭から血の気が引いて、胸が押し付けられているかのように苦しくなってくる。
その場に呆然と立ち尽くす民喜の耳に、
「弱虫」
「意気地なし」
「無責任」
今度はどこからか、複数の人がヒソヒソささやく声が聞こえてきた。辺りを素早く見回す。道路の向こう側を三人組の女の子が歩いているのが見える。夕陽を背に歩いているため、顔までは判別できない。彼女たちが言ったのだろうか?
何が起こっているのかよく分からない。心臓がドクドクと高鳴り、頭の中がパニックになりそうになる。
そうしている内に、「大学全体が自分の悪口を言っている」との考えが頭に閃いた。自分が授業や礼拝に出ていないことも、デモに参加しなかったことも、皆に全部知られているのではないか。大学全体がそれを非難しているのではないか、と感じる。
踵を返し、来た道を戻り始める。早足はすぐに駆け足へと変わった。一刻も早くこの場を立ち去りたかった。
はあ、はあ、はあ、はあ……。
息を切らして走りながら、もうこの大学にはいられない、と思った。
「いらっしゃいませー」
カウンターの中にはいつも見かける伏し目がちの女性と新しくバイトを始めた青年が立っていた。民喜は店員から身を隠すようにお弁当コーナーへ向かった。傷んでしまった野菜の他に、部屋にはもうほとんど食べる物がなかった。
目の前に並んでいる弁当の中で、食べたいと思うものは一つもない。胃の中が重苦しく、まったく食欲も湧いてこない。
コーナーの前に立って何を買うか決めかねていると、カウンターの方からクスクス……という笑い声が聞こえてきた。カウンターに立つ中年の女性と青年がこっそりこちらを見ながら笑っているのだと思う。
「また来た」
「自炊してない」
ヒソヒソ話が聞こえてくる。血の気の引いた頭に、今度はカーッと血が上ってくる。
なぜ分かったのだろう? 全部バレてる?
何も買わずに急いでコンビニを出る。出口のところで足がもつれ、転びそうになってしまう。何とか体勢を持ち直したが、今のもきっと見られてしまっただろう。耳元に自分を嘲笑う声が押し寄せてくる。
もう駄目だ。このコンビニも、もう使えない……。
アパートに戻ると、ラインの着信音が鳴った。瞬時に中田悠からだな、と思う。手に取って確認してみる。やはりパートリーダーの中田悠からだった。
――いまどこ? 今日の練習来れる?
――ごめん、ちょっと体調よくなくて、今日は休みます。本番までには必ず治します。ごめんなさい
涙を流している絵文字も添える。すぐに既読になり、
――了解です。どうぞお大事に。明日は大丈夫そう?
――ごめん、明日も無理かも。でも、本番までには必ず治します。ホント、ごめんなさい
――了解です。くれぐれもお大事に
笑顔の絵文字が添えられていたが、部員たちはきっと自分のことを怒っているだろう、と思う。
「何でやねん!」
眉をしかめて自分を注意する部長の妙中真美の姿が浮かんでくる。
「何でやねん!」
今回は突込みではなく、本気の怒りで。
いつしか中田悠も普段の穏やかな表情を一変させ、一緒になって怒っている。
「何でやねん!」――
動悸がし、のどがキュッと締め付けられたようになって、苦しい。民喜はスマホを布団の上に力なく放り投げた。
すると、
(弱虫)
(意気地なし)
(無責任)――
大学の構内で聞いた悪口が耳元によみがえってきた。再び頭の中がパニックになりそうになる。思わず大声を出してしまいそうだ。
堪らず民喜はまたスマホを手に取り、将人と駿にラインをした。