5、
民喜は目を開けた。
水色のカーテンの隙間から、一筋の光が差し込んでいる。
微笑みと涙が混ぜ合わさる中で、ここが病室のベッドであることに気付いた。部屋には自分の他、誰もいない。
民喜は涙をぬぐい、枕元の眼鏡を手に取った。ゆっくりとベッドから下りる。左腕につけられた点滴の針と管はいつの間にか取り外されていた。
深呼吸をし、窓のカーテンを全開にする。朝の光が一斉に差し込み、思わず目を細める。その眩い光は、ついさっきまでネアンデルタール人の家族と一緒に浴びていたのと同じ光だった。
いまも自分のすぐそばに彼らがいるような気がした。
彼らの微笑みが脳裏に浮かんでくる。
自分は確かに、ネアンデルタール人の家族と会ったのだ――と思う。
部屋の中に目を戻すと、鮮やかな赤色が民喜の目に飛び込んできた。
これは何だ……?
その物体は丸い形をし、ハッと目の覚めるような赤を発色させて、光の中に浮かび上がっていた。
中央はわずかにへこんでおり、その窪みから細い棒状のものがチラッと飛び出ている。窪みの周囲を光の輪が取り巻き、その下方には柔らかな深紅の影が生じている。ツルツルとした赤い外皮には小さな黄色の点がリズミカルに散らばっている。
これはリンゴだ――自分が知っている知識においては。しかしいま、民喜は初めてこの対象に出会っているように感じた。
「リンゴ」
何者かにいざなわれるようにして、民喜は目の前の存在の名を呼んだ。するとその瞬間、言葉と対象とがピタッと一致した。胸の内に大きな感動が湧きあがって来る。
民喜はリンゴをそっと両手で持ち上げ、顔に近づけた。甘く爽やかな香りが鼻をくすぐる。民喜は目を瞑り、しばらくその香りを味わった後、またそっと静かに棚の上に置いた。リンゴの下にまた柔らかな淡い影が生じる。
リンゴ――。いま目の前に在るのは、リンゴそのものだった。他の何ものでもない、ただ、リンゴそのものだった。
窓の外に緑色の色彩が揺れているのが目に留まる。民喜は窓際に近づき、間近でサワサワと揺れるそれを見つめた。
緑、黄緑、エメラルドグリーン……心に染み入る柔らかな緑が、光の中で瞬いている。細かなギザギザの輪郭を持つその一枚一枚ははっきりとした存在感をもって、民喜に何かを語りかけていた。見つめるほどに民喜の胸の内もサワサワと心地よく揺らいだ。
「葉っぱ」
民喜は呟いた。するとその言葉に応えるかのように樹の葉はいよいよその輝きを増し加えた。目の前にあるのは他の何ものでもない、葉っぱそのものだった。
窓の外に見える一つひとつの存在がいま、自分に何かを語りかけている。光の中に、自分に向かって語りかける声がある――。
チュチュ、チュン……。
どこからか、軽やかな小鳥の歌声が聴こえてくる。民喜は夢中になって目に映る存在一つひとつの名前を呼んでいった。
ケヤキ。
空。
雲。
芝生。
スズメ。
ベンチ。……
幼な子のように人差し指で指し示しながら、対象の名前を呼んでゆく。名を呼ばれた存在はただ、それそのものとして民喜の目の前にみずみずしく立ち現れていった。だんだんと時間の感覚は失われ、いまという瞬間が自分を包み込んでゆく。
部屋の中に視線を転じる。朝の光に隈なく照らされる中、これら内部の存在もやはり民喜に向かって声を発していた。
コップ。
テレビ。
棚。
シーツ。
枕。
鉢に植えられたパキラ。……
眩い光に洗われるようにして、一つひとつの存在がどんどんと明晰になってゆく。
民喜はふと、足元に視線を落とした。裸足の足が目に留まる。
民喜は一番近くにいる存在の名前をまだ呼んでいないことに気づいた。
まっすぐ前を向いて、
「民喜」
民喜は自分の名を呼んだ。
「佐藤民喜」
するとその瞬間、小さな光が胸の内に宿った。
思わず両手をギュッと胸の上に押し当てる。心の内が暖かな光と熱とで満たされ、目から涙がポロポロと零れ落ちてゆく。
胸の上に手を押し当てながら民喜は、自分という存在がいまここにいるのは疑いもない真実なのだ、と思った。
胸の内から声がする。
「…………善い」
他ならぬ自分自身の内側から、あの声がする。
「ああ」
民喜は窓の外を見遣った。溢れる涙で風景が滲む中、
自分は、自分そのもので、在って、善いのだ――
その確信が民喜の全身を貫いた。
心の奥の方でポコッと古びた栓のようなものが外れた――と思ったら、何か澄んだものが勢いよく溢れ出たように感じた。それは瞬時に民喜の全身を駆け巡り、その隅々にまで染み渡り、民喜の渇きを癒していった。これまで、決して癒されることのなかった奥底の渇きが……。
いま、心の底に静かな泉が湧き出しているのを民喜は知った。