2、
「民喜、浜松のお祖母ちゃんのところでしばらくゆっくりしない?」
シーツの端を整えながら、何気ない口調で母は言った。
「えっ、しばらくって、どのくらい?」
「短くても、来年のお正月くらいまで。場合によっては、来年の3月まで」
母の顔を見つめる。
「えっ、大学は」
シーツのしわを伸ばし終えた母はまたベッド脇の椅子に座った。
「大丈夫よ、体が第一なんだから。お医者さんからもね、ストレスの少ない環境でしばらく療養した方がいいって言われたでしょ」
「でも、単位が……」
母は微笑んで、
「いいじゃない。半年や一年、卒業が遅れたって」
「休学するってこと?」
「そう」
瞬時に父の顔が浮かぶ。
「父さんは……」
「お父さんとも今朝、話し合った。お父さんも、それでいいって言ってたわ」
「父さんもいいって……?」
そう呟きつつ、民喜は心のどこかが見る見るうちに軽くなってゆくのを感じた。
休学――。
そう決まった途端に、体中から力が抜けていった。
「病院も紹介してもらうつもりだから。しばらくは浜松の病院に通院することになると思う」
「うん、分かった」
安堵の笑みが浮かんできそうになるのを、慌てて口に手を当てて誤魔化す。
「今週中に大学にも手続きしないとね。あと、荷物の準備も。大丈夫、お母さんが手伝うから。民喜は心配しないで」
「うん、ありがとう」
しばらくの沈黙の後、
「11月になったら、咲喜もお母さんも浜松に行くから」
きっぱりとした口調で母が言った。
「咲喜も? 学校は?」
母は一瞬ベッドの端を見遣った後、民喜の目を見つめ、
「学校は、浜松の学校に通うことになる」
「えっ、浜松の?」
母は頷いて、
「実は、もう転校の手続きも済ませたの。ごめんね、民喜に相談しないで決めてしまって」
「浜松に引っ越すの?」
「うん」
民喜は母から顔を逸らし、目の前の何もない空間を見つめた。
浜松に引っ越す――その言葉を胸の内で反芻する。
じゃ、父さんは……
という問いを発することができない。
母も民喜と一緒に前方を見つめていたが、やがて民喜の問いを察したように、
「お父さんは、福島に残るわ」
と言った。
チュチュ、チュン……。
窓の外から小鳥の鳴き声が聞こえてくる。
意外なほどに、衝撃はなかった。そうなることは、本当は、もうずいぶん前から分かっていた気がする。もうずいぶん前から――。
咲喜と母さんは、引っ越す。父さんは、残る。
その事実を、ただ事実そのものとして、民喜は静かに受け止めていた。
「このリンゴ、誰が持ってきてくれたの?」
棚の上の真っ赤なリンゴに目を遣りながら、民喜は言った。
「そのリンゴ、民喜のじゃないの? 何かの拍子に民喜のカバンから転がってきたのを咲喜が見つけて、とりあえずそこに置いておいたのよ」
「俺のカバンから?」
なぜカバンからリンゴが出てきたのか、よく分からない。足元に置いていたカバンを覗き込む――と、見慣れた額縁が目に留まった。ハッとしてカバンの中から額縁を取り出す。
次の瞬間、民喜の目の前に、光の中に微笑むネアンデルタール人の家族が立ち現れた。今朝、夢の中で出会ったのとまったく同じ姿で――。
「あら、何の絵?」
「ネアンデルタール人」
「民喜が描いたの?」
「うん、高校の時。地震の前の日に描いた」
「震災の前の日に?」
母は驚いた声を出して絵を覗き込んだ。