3、
昼食後、同室に新しい患者が入院してきた。40代前半くらいだろうか。カーテンで仕切られている隣のスペースから時折、鼻水をすする音が聞こえてくる。
それまでは自分一人で気楽だったのが、途端に背中の辺りが緊張してくる。
なるべく物音を立てないように息をひそめていると、
「おっす!」
将人と駿が部屋に入ってきた。
「あれっ、民喜、今日はずいぶん顔色いいな!」
将人の大声に、民喜は思わず唇に人差し指を当てた。
「明日退院できるって! 良かったな」
駿も大きな声でそう言って民喜の肩をポンと叩いた。駿にも(静かに)とのサインを送る。が、二人ともこちらのサインに気づいてくれない。
将人はビニール袋からペットボトルの紅茶を取り出し、
「はい、差し入れ」
「サンキュー」
消え入りそうな声でお礼を言う。差し入れを受け取った民喜は隣のカーテンを無言で指さし、唇に人差し指を押し当てた。そのジェスタチャーでようやく二人は仕切りの奥に人がいることに気づいたようだった。将人がオッケーサインをしてこちらに目配せする。
「おばちゃんたちは?」
駿が声をひそめて尋ねた。民喜も小声で、
「母さんはデパートに買い出しに行った。父さんと咲喜はもういわきに戻った。父さんから、くれぐれも駿と将人によろしくって」
二人は同時にオッケーサインを作った。
差し入れしてくれたペットボトルのフタを開け、一口飲む。駿と将人もビニール袋からペットボトルの紅茶を取り出して、一口飲んだ。隣の患者を気にしてか、二人共言葉少なげだった。二人は昨日は駅前のビジネスホテルに宿泊したとのことだった。
「これからのことなんだけど……。しばらく静岡の祖母ちゃんの家で過ごすことになった」
そう話を切り出すと、
「そっか」
駿が頷いた。
「大学も休学する」
将人も頷きながら、
「いいじゃねえか、とりあえず、しばらくゆっくりすれば」
「ああ、ちょっとくらい休学しても、どうってことねえべ」
駿が続ける。
「うん」
民喜はペットボトルの紅茶を口に含んだ。
「それはそうと、この絵は……?」
駿が棚の上の絵を指さした。午前中に母がそこに「ネアンデルタールの朝」を飾ってくれたのだった。
駿は病室に入ってきた瞬間からこの絵の存在に気付いていたようで、話をしながらチラチラと絵の方を見ていた。
「ああ、この絵。俺が描いたんだけど。高校の時、地震の前の日に」
「地震の前の日?」
将人がびっくりした表情をした。
「ネアンデルタール人じゃねえか?」
駿が眼鏡をずり上げて言った。
民喜は額に入った絵を手に取って、二人に渡した。
「ネアンデルタール人って、どんなだっけ?」
将人がささやくと、
「共通の祖先から枝分かれした別種の人類」
すかさず駿は小声で答えた。
「この絵、実は、駿と将人にもずっと見てもらいたいと思ってたんだ。ずいぶんと見せるのが遅くなっちまったけど……」
二人は真剣な面持ちで絵を見つめた。
「地震の2日前、ネアンデルタール人の話をしたのを覚えてる? 三人で、いつもの場所で」
駿が頷く。
「駿とはこの前会ったとき、バス停の前でちょっとその話をしたけど……」
「そう言えば、懐かしいな。あの頃は毎日のように浜に行ってたな」
将人が幼い子どものような笑顔を浮かべた。
「そんとき、ネアンデルタール人にはどのように世界が見えていたか、っていう話をしたよな」
民喜の言葉に、
「うーん、そうだったっけ?」
将人は首をひねった。
「こんにちはー」
部屋の入口から声がした。
「あっ」
立っていたのは山口凌空だった。
「おう、民喜」
山口は派手なピンクのTシャツを着て細身のジーンズをはいていた。
「この度は色々、ホントにありがとう」
頭を下げベッドから降りようとすると、
「いやいや、そのままで」
山口は手を振って制止し、
「はい、差し入れ」
ビニール袋から雑誌を数冊取り出し、民喜に渡した。
「あっ、ありがとう」
「体調はどう? 調子良さそうじゃん」
山口は今日も前髪をきっちり固めていた。
「明日退院できることになった」
「そっか、それは良かった」
山口はそう言ってから、
「初めまして、山口凌空です」
椅子から立ち上がった駿と将人に挨拶をした。
「俺の地元の親友。駿、将人」
山口に二人を紹介する。
「民喜が世話になりました」
駿と将人が頭を下げて礼を言った。
「いえいえ」
病院で見ると山口の身長はさらに大きく見えた。小柄な駿とは身長差が20センチ以上あるだろう。
「どうぞ、座ってください」
駿が椅子をすすめる。
「どうも」
山口は大きな体を縮めるようにして椅子に座った。
自分の目の前に駿と将人と山口が並んでいる――。何だか不思議な気持ちだった。瞬間、ここが福島なのか東京なのか、よく分からなくなる。
「山口と明日香さんが救急車を呼んで、つきそってくれたって聞いて。ホント、ありがとう。両親からもくれぐれも山口によろしくって……」
小声で礼を伝える。
「いやいや、そんな、何も」
山口は手を振った。カーテンの向こうから鼻をすする音が聞こえる。山口も隣に人がいることに気づいたようで、声をひそめ、
「民喜に飲みの誘いのライン送ったんだけど、ずっと既読にならなくて気になっててさ。大学でたまたま永井さんに会ったんで民喜のこと尋ねたら、コーラス部の練習も休んでるって聞いて。やっぱ永井さんも民喜に送ったラインが既読になってなかったらしくてさ。永井さんも心配してた。で、何か分かったら連絡ちょうだい、って彼女に連絡先伝えておいたんだ」
「そうだったんだ。ごめん、色々」
「いやいや。で、その2日後くらいに永井さんから連絡が入って。民喜のアパートの住所教えてほしいって。体調が悪いのかもしれないから差し入れを持っていくって言ってた」
「えっ、明日香さん、俺のアパートに来てくれたの?」
思わず大きな声が出てしまう。隣のカーテンから鼻をかむ音が聞こえる。民喜はハッとして口に両手を当てた。将人がプッと噴き出す。
山口もニヤッと笑って、
「らしいよ。でも結局留守だったって。で、また2日後くらいに永井さんから連絡があってさ。やっぱり心配だから、もう一回アパートを訪ねてみるって。んで、万一何かあったときのために、俺にも一緒に来てほしいって。えーと、それが金曜日の午後だったかな。授業が終わってから待ち合わせて、二人で民喜のアパートに行ってみた。そしたらやっぱり民喜は不在で……。
でもその帰り道、偶然、民喜を見かけたんだ。民喜が向こうの歩道をすごい勢いで走ってるのを見てさ。呼び止めて、近づいていこうとした瞬間、突然目の前で倒れちゃったんだ。マジで、びっくりしたぜ。で、すぐに救急車を呼んだんだ」
「そうだったんだ……。ホント、色々、ごめん」
「いやいや、俺は何も。礼は永井さんに言ってちょうだい」
山口は民喜の肩をポンと叩いた。
明日香さんがそこまで自分のことを心配してくれていたことを初めて知った。そしてあの差し入れを持って来てくれたのが、他ならぬ、彼女であったことも――。
(あの差し入れ、明日香さんからだったんだ……!)
将人も民喜の肩をポンポンと叩き、
「いやー、民喜、良かったな。明日香ちゃん、民喜のことをすっごく想ってくれてるじゃねえか」
ニヤニヤ笑いながら言った。