第6章
1、
談話室には誰もいなかった。窓際のテーブル席に向かい合って座る。
「説明すると、ちょっと長くなるんだけど……。ごめんね」
明日香は辺りを見回してから、声をひそめて話し始めた。
病院内は不思議なくらいシンと静まり返っている。少し離れたところにあるナースステーションからも話声は聞こえてこない。
「さっきあまり授業に行くことができてないって言ったよね。それも、これからお話することと関わってるんだけど。えーと、どこから話したらいいかな……」
彼女は目を伏せ、軽く咳払いをした。窓のすぐ近くで樹の葉がサワサワと揺れている。
「あの、私ね、民喜君には伝えてなかったけど、ずっとお付き合いしてた人がいたんだ」
えっ――
と声が出てしまうのを辛うじて堪える。明日香はチラッと上目遣いで民喜の顔を見て、
「あっ、でももうその人とは別れたよ」
と付け加えた。
「付き合ってたのは、大学に入学してすぐくらいのときから、今年の春まで。2年間くらいかな」
ショックを受けるとともに、今年の春に別れたという言葉にわずかにホッとする。
「その人は地元で同じ高校だった人で……。彼が進学したのは東京の別の大学だったんだけど、同じ東京っていうこともあってか、入学して間もない頃に彼から一度メールが来て。何度か会った後、お付き合いすることになったの」
「そうだったんだ」
何とか平静を装って返事をしようとするが、かすれた声しか出てこない。短く咳払いをして誤魔化す。
脳裏にコーラス部の練習の休憩中に垣間見た明日香の乳房が浮かんだ。胸元にあった小さな二つのほくろ。
あの胸のほくろを知っている奴がいた……!
頭にカッと血がのぼり、耳の辺りが熱くなってくるのを感じる。
「彼は高校のときは、クラスの人気者だった」
明日香はささやくような声で話を続けた。
「はじめは、自分みたいな人間が彼とお付き合いできるなんて、信じられない気持ちだった。高校の頃、私はクラスでも地味なグループにいて、でも彼はいつもクラスの中心にいて。勉強もできるし、話もうまいし、人当たりもいいし。そんなに接点もなかったのに、どうして私に声をかけてきたんだろうって……」
明日香はゆっくりと息を吸い込み、
「お付き合いを始めた頃は、楽しかった。でもね、だんだん、あれっていう瞬間が増えてきて……」
俯く彼女の顔を見つめる。
「彼は普段は人当たりがいいんだけど、何か自分の意にそわないことがあると急に不機嫌になる性格だってことが分かってきたんだ。そういうときは人が変わったように棘のある言葉を投げかけてくる。初めは、何が起こっているのか分からなかった。彼があれほど怒ってるんだから、何かよっぽど自分が悪いことをしてしまったと思って、必死で謝った」
彼女の顔に苦悶の表情が広がる。
「そういうことが周期的に起こるようになって……。不機嫌になって攻撃のスイッチが入ると、もうどうしようもないの。私が彼と約束したことをまだしてなかったりすると、それをきっかけに、ネチネチと、徹底的に責め立ててくる。一緒にいるときだけじゃなく電話でも、1時間も2時間も。その間、私はただひたすら謝り続けるしかなくて……。
もちろん、私には私なりの理由もあった。たとえば、風邪で体調を崩してたり、徹夜で授業のレポートを書いてて時間がなかったり。忘れてたわけじゃないんだけど、後回しになってしまうことって誰にでもあるじゃない。でも彼はこちら側の言い分は一切、聞いてくれなかった。それはお前が俺のことをどうでもいいって思ってる証拠だ、とか」
「そんな馬鹿な」
思わず声が出てしまう。
胸の内に激しい憤りが湧きあがってくる。明日香さんをそのようにいじめるヤツがゆるせない。
明日香は頷いて、
「うん、私もいまはそれはおかしいって理解してる。でも、そのときは、それがおかしいってことが、はっきりと分からなかった。彼は弁が立つ人だし、こちらが一言言い返すとその10倍、100倍の言葉を返してくるし。私の人格を攻撃したり否定するような言葉を……」
明日香は深く息をついた。
「とにかく、一切自分の非を認めることができない人だった。俺は悪くない、悪いのはお前だ、の一辺倒。寝坊してしまったのも、そばにいた私のせい。大学のレポートが出せなかったのも、私のせい。単位を落としたのも、私のせい。いま思うと、笑っちゃうけどね。ものごとがうまくいかないのは全部、一番近くにいる私のせい……。もちろん、私にも至らないことは多々あると思うよ。でも、全部が私のせいってことは、あり得ないよね」
寂しそうな微笑を口元に浮かべ、
「そのうち、言いたいことも言えなくなって。気が付くと、いつも彼の顔色を窺うようになってた。そうして、だんだん自分で自分の気持ちが分からなくなっていった。初めは辛いとか苦しいっていう気持ちもあったんだけど、そういう感情も麻痺してゆくようになった。彼と付き合っている間、むしろ辛いのが当たり前っていう状態だったのかな」
明日香は目を伏せたまま話を続けた。
「彼はそういう一面は、周りの人には決して見せなかった。そういう一面を見せるのは、一番身近にいる私に対してだけ……。社交的で、周囲の人たちからは評判もいい、いわゆるいい人。
時には、私に対して優しく振る舞うこともあった。誕生日にプレゼントを買ってきてくれたり、一生懸命旅行のプランを立ててくれたり。そういうときは、何だかんだあっても、やっぱりこの人は私のことを大事に思ってくれてるのかなって思った。私、それまで男の人とお付き合いしたことなかったし、恋人同士ってどこでもこんな感じなのかなって思うこともあった。でもしばらくするとまた私を一方的に責め立て始めて……」
「ひどい」
民喜は呻くように呟いた。と同時に、いまの話から、そいつが明日香さんの初めての人だったことに思い至る。灰色の男の影が明日香さんの裸体に後ろから抱きついている幻影が脳裏に浮かび、胸に鋭い痛みが走る。
民喜は思わず目の前の空間を手で払って、その悪しきイメージを頭の隅から追い払おうとした。
「そんな感じで1年が過ぎて、大学2年生になった頃には、すっかり自尊心とセルフイメージが低下してしまってた。自分が悪いんだって意識に強烈に囚われるようになってしまって……」
明日香の声が涙声に変わる。胸に鋭い矢じりが突き刺さったような感覚が民喜を捉える。
「彼にダメだダメだと言われている内に、本当に、悪いのは自分の方なんだって思えてきてしまった。私はダメな人間、価値のない人間だって……」
明日香はバッグから水色のハンカチを取り出し、涙をぬぐった。
「ごめんなさい」
明日香さんがそんな状態にあったことを、自分はまったく知らなかった。膝の辺りがワナワナと震えてくる。
「それと関係して、心身がすぐれない日も増えてきて……。抑うつ状態というか。それでも、彼は私のことを必要としているはずだし、何とか彼を支えようっていう一心で頑張ってた。辛いのに、何故か彼と別れるって発想にはならなかった。確かに彼が言うように、自分には至らないところも欠点もあるし。時に理不尽なことがあっても、私が我慢すればいいんだって……」
明日香はバッグからティッシュを取り出して、鼻をかんだ。どう言葉をかけたらよいのか分からず、彼女をジッと見守ることしかできない。それに民喜自身も気が動転してしまっていた。
鼻をかみ終わると、彼女は少し落ち着いた口調に戻り、
「そう、彼が私を必要としていたっていうのは事実だったと思う。でもそれはあくまで、彼自身のために必要だった、ということなんだ。彼自身のストレスのはけ口のために。彼自身の問題と責任をすべて私に転嫁するために……。いまはそのことがはっきりと分かる。彼は、本当には、私のことを大事に想ってはいなかった」
誰もいない隣のテーブル席を見つめて明日香は言った。
「彼は初めから、私がターゲットになり得る人間であることが分かってたんだと思う。だから、いい人の顔をして私に近づいてきた。私のように、もともとセルフイメージがあまり高くなく、人に言い返せなくて、自分の方が悪いって思ってしまう傾向がある人間が格好の対象だから……。
彼みたいな人間に標的にされてしまったら、本当は、逃げなきゃいけない。勇気をもって、関係を絶たなきゃいけない。そうじゃないと、いつかこっちの心が壊されてしまうから」
「いまは関係を絶つことができてるんだよね?」
不安になった民喜は彼女に確認をした。
「うん、いまは……。でも、そうなるまで、本当に色々あって、大変だった」
明日香はハンカチで目をぬぐった。