3、
「普段は私、一人であそこに座ることはないんだけど、その日は何となく、座ってみたんだ。大好きな谷川俊太郎さんの詩集を取り出して、パラパラと読み始めて……。そしたらふと、中学3年生の時、東北合唱コンクールで『朝』を歌った時のことが心によみがえってきたんだ」
「明日香さんが歌ってくれた、あの『朝』だね!」
民喜は思わず身を乗り出して言った。明日香さんのその歌声がこの半年、ずっと自分を支え続けてくれたのだ。
明日香は頷いて、
「うん、民喜君に聴いてもらった、あの『朝』……。あっ、ちょっと話が逸れちゃうけどね、この曲を歌っているとき、少し不思議な経験をしたことがあるんだ」
瞬間、明日香の顔から苦悶の表情が遠ざかった。
「合唱コンクールでこの歌を歌い始めたとき、何だか時間の流れが変わったように感じたんだ。時間がすごくゆっくりと流れてゆくような感覚。そうして、目の前の世界が、朝の光が射したようにパーッと明るくなってゆくように感じて……。
その不思議な感覚の中で、一人ひとりの声をはっきりと聴き取ることができたし、みんなの存在をすぐ近くに感じることができた。そう、みんなの体から、何か光が発されているように感じたんだ。キラキラ……一人ひとりの存在が輝いているように見えた。本当に、幸せで、感動的な瞬間だった」
明日香は涙を目に浮かべて微笑んだ。
同じ――民喜は胸の内で呟いていた。同じ……今朝、俺が経験したあの不思議な感覚と同じだ!
「そういう経験をしたのは、この一度きりなんだけどね。私にとって、本当に大切な記憶になった。その後、高校に入ってからも、いつもこの歌を口ずさんでた。辛いことや悲しいことがあっても、この歌を歌うとすごく勇気が出た。たとえいまは辛くても、それでも前を向いて生きてゆこうっていう気持ちになれた」
民喜は頷いた。
「でも思えば、大学生になって彼と付き合い始めてから、このコンクールのことをあんまり思い出さなくなってたかもしれない。大切な記憶にフタがされて、思い出すことが妨げられていたというか……。
でもね、あの日、芝生の上に座ってたら、久しぶりにコンクールの記憶がフッと心によみがえってきたの。彼と一緒にいる間、ずっとフタをされていた記憶が……。そしたらちょうどその時、民喜君が私に声をかけてくれたんだ」
「そうだったんだ」
彼女は恥ずかしそうに目を伏せ、
「っていうか、実は気づいてたんだ。向こうの方に民喜君が歩いているの」
「あっ、そうだったの?」
「うん。合唱コンクールのことを思い出しながら、遠くの方を歩く民喜君のことを見つめてた。で、そのとき、民喜君に私のことを気付いてほしい、こっちに近づいてきてほしい、ってすごく思ったんだ」
ほんのり赤く染まった彼女の頬がますます赤くなった。
「本を読むふりをしながら、実は民喜君の様子をずっと気にかけてた。するとホントに民喜君が私の方に歩いてきてくれたから、びっくりした」
彼女の俯く顔を眺めつつ、民喜も胸がドキドキとしてきた。
そう言えばあの時、遠くに明日香の姿を見つけた瞬間、懐かしいような、いとおしいような感情が込み上がってきたのを覚えている。彼女のそばに駆け寄ってゆきたい、という衝動が自分を捉えていた。
「芝生広場でお話しした後、民喜君に『朝』を聴いてもらったよね」
「うん」
力強く頷く。
また朝が来てぼくは生きていた ……
明日香の歌声がよみがえってくる。彼女の歌声の背後で、満開の桜が風に揺れている。……
「民喜君の前で『朝』を歌い終えた後、自然と、決心がついたんだ。彼と別れる決心」
明日香はぱっちりとした切れ長の目で民喜をまっすぐに見つめて言った。彼女と目と目が合う。
「民喜君とお話して、民喜君に歌を聴いてもらったことで、自然と心に踏ん切りがついたの」
「そうだったんだ」
と頷く。
そのような決意が秘められた歌声だったからこそ、これまで自分を力づけ、励まし続けてくれたのだ、ということを民喜は体の奥底から納得していた。
あの日、『朝』を歌ってくれた後、明日香さんはそれまで見せたことのない表情を一瞬浮かべた。
「悲しい時は、いつもこの曲を思い出して、歌ってた。すると勇気が出て来るというか、それでも、やっぱり生きて行こう、って気持ちになる」――
自分を見つめる彼女の瞳には確かな光が宿っていた。
「そうだったんだ」
民喜は再び頷いた。