4、

明日香はゆっくりと息を吸い込み、

「その晩、勇気を出して、彼に『別れたい』って連絡した。彼にとっては青天の霹靂だったみたいで、予想してた通り全然納得してくれなかった。別れる理由を問い詰められたけど、そのときは、モラハラって言葉はあえて使わず、なるべく彼の自尊心を傷つけないように、『色々考えた結果、もう関係を続けることが難しい』ということだけを伝えた。けど、やっぱり駄目だった。直接会って話したい、今から会いに行くって、何度も何度も電話やラインが来て。

 数日後、はっきりと『あなたからハラスメントを、精神的暴力を受けてるって感じてる』って電話で伝え、詳しく説明した。あなたとお付き合いしていて、ホントはずっと、辛かった。苦しかった。もう限界だから……だから、もう距離を置きたいって。そしたら、彼は激怒して。1時間後、常軌を逸した怒りようの長文のラインが送られてきた。今回のことで自分は本当に傷つけられた、俺の方こそお前の被害者だ、直接会いに来て謝罪しろって、訳分かんないことも書いてあって……。

そして次の日、彼、直接家にやってきたの。私、すごく怖くて……。叔父と叔母を介して、もう会うのは難しい、って伝えてもらった。でもやっぱり彼は納得しなかったみたい。玄関先から、『この度のことで本当に傷つけられました』っていう彼の声が聞こえてきた。いかに自分が傷ついたかを、叔父と叔母にも切々と訴えていたみたい」

 明日香の顔に再び苦悶の表情が広がってゆく。

「私の意志が固いことが分かった彼は、今度は私を攻撃することにエネルギーを注ぐようになった」

 彼女は声に詰まってコホンと咳をし、消え入りそうな声で、

「その夜、『早急に謝罪しに来ないと、お前のダメなところ、恥ずかしいことを全部、SNSでみんなにばらまいてやる』ってラインが来て……」

「脅迫じゃん」

 思わず大きな声が出てしまった。明日香はそのときの恐怖がよみがえってきたのか、おびえた表情をしていた。

「もちろん返信はしなかったけど。すごく怖くなって、思い切ってラインもフェイスブックもブロックして、電話も着信拒否にした。もう彼から私に連絡を取れないように。でもすごく不安だった。本当に、彼がSNSにあることないことを書き込んだらどうしよう……。この頃から本格的に心身の調子が悪くなって、授業に行けなくなっちゃった」

 手元のハンカチを明日香はギュッと握りしめた。

「それから1週間後、地元の友達から電話があって。『フェイスブックで明日香について、変なこと書かれてるよ、大丈夫?』って心配する電話だった。彼、本当に自分のフェイスブックで私のこと書いちゃったみたいで……。元カノって言い方だったみたいだけど、そんなの、共通の知り合いだったら誰でも私のことだって分かるじゃない。

私、直接はその投稿は見てなくて、友達から内容を教えてもらったんだけど……。ホント、あり得ない内容だった。私がいかにダメな人間か、私の過去の失敗を事細かにあげつらって、嘲笑する内容。しかもそのほとんどが彼の一方的な思い込みか、事実の歪曲。もしくは悪意に基づいた完全なる嘘。そして自分は徹底して、憐れな被害者……。共通の友人がたくさん見てるフェイスブック上で、私への誹謗中傷が連日、投稿されてた。事情を知らない人はその投稿見て、そうか、彼女はそんなひどい人間だったんだ、って信じちゃうよね。頭から血の気が引いて、体がぶるぶる震えてきて。目の前が真っ暗になったように感じて……」

 明日香の目から涙があふれた。矢じりが突き刺さった部分から、血が勢いよくあふれ出た感覚になる。膝がワナワナと震えてくる。

「これが決定打になって、完全にうつ状態になっちゃって……。起き上がれず、一日のほとんどを寝て過ごすようになっちゃった。フェイスブック上での誹謗中傷は数週間くらいで止んだらしいんだけど……。叔父と叔母もすごく心配して。それは当然だよね。叔父と叔母の強い勧めで心療内科を受診したら、適応障害って診断された」

 明日香はハンカチを両目に押し当てた。

「授業もほとんど行けなくて……。夕方からの練習は、みんなに迷惑かけちゃいけないから、体調がいいときには何とか出てたけど……。処方されたお薬を飲みつつ、体調が比較的いい日は大学に行く、という感じで。結局、1学期は単位は数えるくらいしか取れなかったかな」

 明日香は顔からハンカチを離し、鼻をすすった。

「夏休みに入る少し前から、早めに実家に帰省することにしたんだ。部のみんなには申し訳ないけど。お医者さんからも環境調整、環境を変えることが一番だって言われてたし……」

 そう言えば、明日香さんは夏休み前から早めに実家に帰省していた。

「東京を離れると、ちょっとホッとした。彼から物理的に距離を置くことができたから……。でもどこにいても、ふとしたきっかけで、彼の言葉がよみがえってくるの。彼が私に向けて発した色んな言葉や、フェイスブックに書かれた誹謗中傷が……。その瞬間、心と体がまた苦しかった状態に戻ってしまう。私はダメな人間、私が『悪い』。原罪意識っていうのかな。やっぱり、こんな自分には生きてる資格がないって思えてしまって……。まるで自分の頭の中に彼のネガティブな言葉が無理やり植え付けられてしまっているみたいだった。決して払い除けることのできない呪いのように」

明日香はテーブルを見つめ、

「夜、やっと眠れたかと思ったら、今度は悪夢でうなされた。真っ暗闇の中、怪物のようなものがずっと自分を追いかけてくるの。『消えろ、消えろ』って……」

 民喜はハッとして明日香の顔を見つめた。同じ――自分と同じだ。脳裏に自分を追ってくるイノシシ人間の姿が浮かんでくる。

「新学期になってから、少しだけ体調は上向きになったけど、やっぱり授業には行ったり行かなかったり。でも両親も叔父も叔母も無理しないようにって言ってくれて。留年しても大丈夫だからって。夕方になるとちょっと元気が出てくるから、コーラス部の練習だけは何とかほとんど欠かさずに出てたの」

「そうだったんだ」

 民喜は呟いた。

「そんな中、民喜君が映画に誘ってくれて、うれしかった。叔父と叔母も気分転換に、ぜひ行ってきなさいって……」

 明日香は民喜の目を見つめ、微笑んだ。

「いや、そんな」

耳の辺りが熱くなってゆくのを感じる。

「新学期になってから、民喜君も何だかしんどそうだったから。民喜君も何か悩んでるのかな、体調悪いのかなって心配だった」

「明日香さん、気づいてたんだ」

 明日香は頷いて、

「その日は私も周期的なものの関係もあって、あまり体調はよくなくて……。それに、考えまいとしてたんだけど、これまでの辛かったこととかが色々思い浮かんできちゃって。民喜君にもしかしたら嫌な思いをさせちゃったかもしれない、ごめんね」

「ううん、全然、大丈夫だよ」

民喜は慌てて手を振った。

「井の頭公園のベンチで、民喜君、絵を見せてくれたよね。『ネアンデルタールの朝』」

 彼女の目に小さな光がともったように感じた。

「絵を見せてくれながら、民喜君、夢の話をしてくれたよね。ネアンデルタール人の夢を見た話。そのとき、声が聴こえたって……」

善い

彼女と同じタイミングで言葉が重なる。明日香は頷いて、

「……っていう言葉。光の中で、ネアンデルタール人がそう言っていて、その瞬間を絵にしてみたのが、あの絵だって」

「うん」

民喜は力強く頷いた。

あの話をした後、明日香さんの目から一粒の涙が零れ落ちたことを思い起こす。夕闇の中、涙は星のように瞬いて消えた。

「民喜君からその『善い……』っていう言葉を聴いた時、突然、中3の時にコンクールで『朝』を歌ったあの瞬間がまたパッとよみがえってきたの。今までで一番、鮮明に。あの時の明るさ、あの時の感動が。まるでいま、その場に立ち会っているかのように……」

 明日香は民喜の目をまっすぐに見つめて言った。

「目の前の世界がパーッと広がって、明るくなって、軽やかになって……。するとフッと、頭の中の呪いの言葉がほどけたように感じたんだ。自分の存在を縛っていた重苦しい縄目がフッとほどけたような……」

 明日香の瞳の輝きがいよいよ増してくる。顔からは苦悶の表情は消え、口元に微笑みが広がってゆく。明日香の言葉を聞きながら、民喜の胸の内に熱いものが込み上がってきた。

「『善い……』っていう声が心に響く中で、眩い光が自分を包んでゆくように感じた。そうして、ああ、生きていて善いんだって思えたの。こんな私でも、生きていて、善いんだって。すると自然と涙が溢れてきて……」

 途中で明日香の声は涙声に変わり、その切れ長の目から一筋の涙が流れ落ちた。

「本当に、ありがとう」

頭を下げた明日香の目から、さらにポロポロと大粒の涙が零れ落ちる。

「このことを、ずっと民喜君に伝えたくて……」

 何か言葉を返そうとするが、唇が震え、言葉にならない。民喜の目にも涙が込み上がってくる。民喜は無言で何度も頷いた。

「明日香さんは悪くないよ」

 唇が震える中、かろうじて言葉を発する。明日香はハッとしたように顔を上げ、民喜を見つめた。民喜の目からも、涙が零れ落ちた。民喜は思わず右手を伸ばして、ハンカチを握りしめる彼女の手に自分の手を重ねた。水色のハンカチは涙に濡れて群青に染まっている。

「……ありがとう」

 明日香は目を伏せ、微笑んだ。口元から可愛らしい八重歯が覗く。

彼女の柔らかで温かな手と指先の感触が伝わってくる。民喜は重ねた手にさらに力を込めた。明日香は指先をかすかに震わせ、民喜に応えた。

ああ、ここに確かに、明日香さんがいる――と感じる。

明日香は涙を流しながら、民喜の手にさらに自分の手を重ねた。民喜も左手を伸ばし、彼女のその手を強く握りしめた。

いま目の前に、確かに明日香さんがいる――。奥行きをもった存在として、光り輝く存在として。喜びも悲しみも言葉にできない痛みもすべて含んだ、明日香さんそのものとして。

「明日香さんは、ずっと素敵だよ。ずっと」

 民喜の目からまた涙が溢れ出た。

「ずっと……」

眩い朝の光がいま、自分たちを包んでいる。

ありがとう――と声にならない声で明日香は呟いた。

 

 

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作者:鈴木太緒(すずき・たお)

   岩手県花巻市在住。猫3匹と同居。

お問い合わせ:neanderthal.no.asa@gmail.com