2、
アパートに戻った民喜は真っ先に、部屋に飾っている「ネアンデルタールの朝」の絵を見つめた。
朝の光の中、微笑みながらこちらを見つめるネアンデルタール人の家族。真ん中に立つネアンデルタール人の少女は、何かを大切に守るようにして胸の上に手を置いている。女性の口元は、何かを自分に語りかけようとしている……。
結局、就職ガイダンスには出席しなかった。もちろん、この後行われる国会前デモにも参加するつもりはない。
2歩ほど後ろに下がり、少し離れたところから絵を眺めてみる。
(…………善い)
彼らが自分に語りかけてくれた、あの声を思い起こす。
この部屋に「ネアンデルタールの朝」の絵があることが不思議に感じる。不思議に感じるけれども、これは確かな現実なのだ。自分は本当に、「ネアンデルタールの朝」を取り戻してきたのだ、と民喜は思った。
とりあえずこの夏、自分はやるべきことはやった!
「そうだ、取り戻してきたんだ!」
民喜は独り呟いて、手をギュッと握りしめた。
血の気が引いたようであった頭に、再び暖かな血が巡り始める。
民喜は目を瞑り、実家のリビングの様子を思い描こうとした。
東京のこのアパートには「ネアンデルタールの朝」の絵があり、福島の実家には「ロウソク岩」の絵がある……。そう思うと、民喜は微かな慰めを感じた。2枚の絵が、福島にいる家族と東京にいる自分とをつなぎあわせてくれているように思った。
「わたし、そのときのこと、ずっと忘れてないよ。ずっと覚えてる」――
胸の内に咲喜の言葉がよみがえる。……
「この絵、咲喜にあげる」
東京に戻る前の日の晩、額に入れたロウソク岩の絵を咲喜に差し出した。
「えっ、いいの! 」
驚いた様子で咲喜は民喜を見つめた。
「うん」
「大事な絵じゃないの? 東京に持って行かなくてもいいの?」
「大丈夫。東京にはネアンデルタール人の絵を持ってく」
「ありがとう!」
咲喜は目を輝かせながら絵を受け取り、大切そうに胸に抱きかかえた。妹にもらってもらうのが、この絵にとって一番自然であるような気がしていた。
「飾ってみてもいい?」
「うん」
「リビングがいいかなー」
妹はそう呟いて和室から出て行こうとしたが、立ち止まり、
「じゃあ、おにいちゃんも、ネアンデルタール人の絵、飾ってね。東京で」
と言った。
「分かった」
「約束だよ」
咲喜は真剣な眼差しで民喜を見つめた。民喜が頷くと妹は笑顔に戻って、
「お母さーん」
部屋の外へ早足で出て行った。
「民喜の絵、久しぶりに見たわ」
母は嬉しそうな顔をしながら、リビングの壁の一番よく目立つところに絵を飾ってくれた。瞬間、リビングにロウソク岩が立ち現れた。
先端に炎のようなものをともし、夜明けの海に立つロウソク岩。微かにオレンジ色に染まり始める空と、そこに瞬く一点の星。
民喜は自分が描いた絵であることを忘れて、リビングの壁に現出したその光景に見入っていた。
確かに、ここに、ロウソク岩が在る――
民喜は確信をもって、そう思った。心が震え、熱くなってくるのを感じる。ふと絵の右下の仏壇の手前に飾られている祖父母の写真に目が行く。
すると玄関の戸が開く音がした。父が仕事から帰って来たようだ。時計を見る。19時過ぎ。今日はいつもよりも帰宅が1時間ほど早い。
「おかえりなさい。今日は早かったね」
咲喜は玄関まで父を出迎えに行き、
「お父さん、ほら!」
父の手を引っ張って戻ってきた。父は何事かという顔をしながらリビングに入ってきて、壁に飾られている絵に目を遣った。
絵の前に立ち、父はしばらく無言で絵を眺めていた。民喜は緊張しながら、そっと父の様子を観察した。
「民喜が描いたのか」
前を向いたまま、父は呟いた。
「うん」
民喜は返事をした。
「ロウソク岩だよ!」
咲喜は何かを訴えるような口調で父に言った。
「ロウソク岩に、火がともってるの」
妹の言葉に父は小刻みに頷いた。しかしそれ以上は何も言わず、いつものように仏壇の前に座り、ロウソクに火をともした。線香をあげる父の姿を見届けて、その場を離れようとした民喜に、
「民喜」
父が声をかけてきた。立ち上がりながら絵を指さし、
「この絵、いつ描いたんだ」
民喜は父の方を振り返り、
「つい最近。この夏休み、こっちさ戻って来てから、描いた」
「そうか」
父は頷き、
「いい絵だな」
ぼそっと呟いた。
「よく描けてる。いい絵だ」
数秒の沈黙の後、
「あんがと」
民喜はぶっきらぼうな口調で礼を言った。
唇が震え、思わず涙が出て来そうになる。それを覚られないように、民喜はソファーに座って父に背を向けた。咲喜と母は黙って二人を見守っていた。静けさの中で小さく、咲喜の鼻をすする音が聞こえた。