第3章
1、
目覚まし時計のアラームが鳴る。急いで起き上がり、身支度を整える。カバンを持って部屋を出て、アパートの階段を駆け下りてゆく。通りに出て大学の方に向かおうとするのだが、水の中を歩いているかのように体が重くなり、うまく前に進めない。
もがいている内に、これが夢であることに気づく。急いで布団から起き上がり、アパートの階段を駆け下りてゆくが、やはり体が重苦しくなって前に進めない。じきにこれも夢であることに気づく。「授業に行かないと」との焦燥感だけが覚めない夢の中でどんどんと膨らんでゆく。
それら繰り返しが延々と続いた後、夢を無理やり引きちぎるようにして民喜は目を覚ました。
ハッとして時計を手に取る。
寝坊した!
目覚まし時計を手に取ったまま、しばし固まる。あと5分で1限目の授業が終わろうとしていた。先週に引き続き、今週も授業を無断で欠席してしまった。
いつの間に二度寝してしまっていたのだろう。8時にアラームが鳴ったことはぼんやりと覚えているのだけれど……。
昨晩はまた意味もなく夜更かしをしてしまった。缶ビールを飲みながら、ネットにアップされているお笑い動画を観続けたり、DVDを観返したり。何者かに見えない縄で椅子に縛りつけられているかのごとく、民喜はパソコンの前に座り続けた。早く寝なければならないことは重々承知しつつも「起きている」ことから「寝る」ことへと行動を切り替えることができなかった。
「このままじゃ本当にヤバい」
と見えない縄目を振りほどくようにしてようやく布団に横になることができたのが朝の6時前。カーテンの隙間から覗く空は、もう完全に明るくなっていた。
チュ、チュン……と小鳥の鳴き声が聴こえてくる中、タオルケットを頭までかぶって何とか2時間だけでも睡眠を取ろうとしたのだったが……。
目覚まし時計を手から離して、天井を見つめる。明け方に寝て昼に起きるということがすでに三日続いていた。
先週の初回の授業と今日の授業とを無断で欠席してしまったことをどう説明したらよいのだろう……?
せめて2限目からの授業には出なきゃいけない。今からすぐ支度をして大学に向かえば、少しの遅刻で済むだろう。と思うのだが、なかなか布団から起き上がることができない。「布団から起き上がる」という、ただそれだけのことができない。
悶々としている内にも時間はどんどんと過ぎてゆく。そっと横目で時計を見る。時計の針は10時10分を指していた。ああ、もう2限目の授業が始まった、と思う。
ふと山口凌空の顔が頭をよぎった。山口たちは今日も国会前へデモに行くのだろう。今週は月曜日から連日、国会前で安保法案反対デモが行われているはずだった。デモにも行かず、授業にも行かず、一体自分は何をしているのだろう?
すべてを投げ出してしまいたい、という衝動がチラッと民喜を捉えた。
頭までタオルケットをかぶり、目を閉じる。軽やかな小鳥のさえずりに耳をふさぎ、朝の光から身を隠すようにして……。
白いカーテンで囲まれたブースの中で、民喜は甲状腺検査を受けようとしていた。
医者が診察台の上に横たわるように無言で指示をする。民喜は不安な心持ちで横になった。するとすかさず、のど元にヒヤッとするジェルを塗られた。
診察台の下を何かが走り回る音が聴こえて来る。ネズミか何かが入り込んでいるのかもしれない。
民喜は思わず起き上がり、
「今日はやめてください」
と訴えた。嫌な予感がして仕方がなかった。
「今日はやめてください。帰ります」
民喜はそう言い張り、診察台から降りた。
すると医者はキーボードに素早く何かを打ち込み始めた。民喜は《自己責任》と打ち込んでいるのだと思った。
文字を打ち終えてしまうと、医者はもはや民喜に関心を失ったようだった。あたかもここに民喜が存在しないかのように、次の検査の準備をし始めている。民喜はのどに塗られたジェルを手でぬぐい、逃げるようにしてブースを出た。
ブースを出たと同時に、真っ青な顔をした子どもとすれ違った。駿の弟の翼だった。あの人懐っこい笑顔は消え失せ、まるで仮面をかぶったかのように表情のない顔をしている。首にはグルグルと包帯を巻いており、真ん中にポツンと赤い血が滲んでいた。
「翼!」
駆け寄ろうとした瞬間、肩をトントンと叩かれた。振り返ると、高校3年生のときに担任だった雅子先生が立っていた。
「仕方がないのよ」
雅子先生は民喜の顔を見つめて言った。目にうっすらと涙がにじんでいる。
雅子先生の隣には、高校の校長であった木村先生がいた。木村校長は顔を真っ赤にし、何かを激しく恥じるような表情で俯いていた。
いつの間にか翼はどこかに姿を消していた。民喜は先ほどのブースに近づき、カーテンの隙間からそっと診察室の様子を伺ってみた。
医者と看護師がせわしなく動いて診察の準備をしている。医者が手にする検査器の先っぽには、よく見るとカミソリの刃のようなものがついていた。皮むき器で野菜の皮をむくように、これで子どもたちの甲状腺を削り取る気なのだ、と思う。そうして甲状腺の異常を「なかったこと」にするつもりなのではないか……!?
民喜は頭から血の気が引いてゆく想いがした。そうか、その恐ろしいことがたったいま、翼に対して実行されたのだ。
民喜は背後にいる木村校長の元に駆け寄り、
「校長先生、何とかならないんですか、校長先生!」
肩をつかんで揺さぶった。校長はますます顔を真っ赤にさせたが、やはり俯いたまま返事をしない。必死に訴える民喜の背後で、雅子先生は、
「仕方がないのよ」
と繰り返していた。
「次の人、どうぞ」
目の前のブースから、白いカーテン越しに医者の声がした。
「はい」
子どもの声が聞こえる。
胸騒ぎがした民喜は再びカーテンの隙間から中を覗き込んだ。民喜のいる位置からは、診察台に横たわる子どもの小さな足の裏しか見えない。
反対側に回り込んで中を覗くと、子どもの顔は髪の毛で覆われていた。着ている服から、診察台に寝かされているのは女の子であることが分かった。もしや、と思う。嫌な予感はいまや頂点まで達しようとしていた。
看護師が女の子の顔を覆う髪の毛を真ん中から二つに割いた。すると予感していた通り、そこから咲喜の顔が現れた。
「咲喜!」
民喜の声が聞こえていないのか、咲喜はまったく反応しない。目を瞑ったまま、無防備なのど元を医者に差し出している。看護師がたっぷりとしたジェルを素早く首に塗り付ける。
「咲喜、危ねえ!」
医者が検査器を手に取った。咲喜のか細いのど元に、刃のついた検査器の先端が当てられようとしている。
「やめろ!」
民喜はブースの中に駆け込み、医者の手から検査器を奪い取ろうとした。……
結局、民喜はこの日、5限までのすべての授業と夕方からのコーラス部の練習を欠席した。