第4章
1、
夜、母の晶子から電話がかかってきた。
「民喜、元気にしてる?」
「うん」
「そう、よかった」
みぞおちの上に手を当てる。母を心配させまいと、今朝のことは言わないでおいた。
今朝、眠気覚ましのコーヒーを飲んだ後、突然、みぞおちの奥の方に痛みが走った。
「あ痛たたたた……」
状況がよく理解できないまま、布団に横になる。キリキリと鋭い痛みが走っているのは胃の中のようだった。しばらく横になっていると幾分痛みは和らいだが、午前中の授業に行くことは断念した。今週は月火水と祝日で、数日ぶりの授業だったのだけれど……。
突然のあの痛みは何だったのだろう? カップ麺やコンビニの弁当ばかり食べていたせいだろうか?
「授業の方は順調?」
「うん」
また母に嘘をついてしまう。
「そう……。でもちょっと声の調子がいつもと違う気がする。風邪気味なの?」
「いや、大丈夫」
「なら、よかったけど……」
ようやく起き上がることができたのは昼の1時過ぎ。食欲はなかったが、朝から何も食べていなかったので冷蔵庫からヨーグルトを取り出してハチミツをかけて食べた。カーテンを閉め切った薄暗い部屋の中で、電気もつけずにヨーグルトを食べている自分に気づくと、民喜は異様な心細さに襲われた。
帰りたい。
プラスチックのスプーンを握りしめ、思わず呟いている自分がいた。いますぐにでも特急に飛び乗って、福島に帰りたいと思った。
そんな自分が発する信号を察知したかのように、夜、母から電話がかかってきた。
「天気予報を見ると、東京はまだまだ蒸し暑いみたいね。でもこれから朝晩冷えて来るから、風邪には気をつけて」
「了解」
「今日、リンゴとお野菜とお米を送ったから。明日には届くと思う」
「ありがとう」
「忙しいと思うけど、時々は自炊するようにしてね」
「うん、わかった」
っていうか、もう福島に帰りたい――という言葉をのど元で飲み込む。
少しの沈黙の後、
「あのね、あと、民喜に伝えておきたいことがあるんだけど」
改まった口調で母は話し始めた。
「実はね、咲喜に甲状腺検査を受けさせたの」
「甲状腺検査?」
民喜はドキッとして聞き返した。
「うん。いわき市内に民間で甲状腺検査を行ってくれているところがあって。そこで先々週の土曜日に咲喜を診てもらったの」
反射的に、先日見た夢のことを思い起こす。夢の中で、咲喜は甲状腺を皮むき器のようなもので削り取られようとしていた。背中の筋肉がたちまち硬くなってゆくのを感じる。
「翼ちゃんのこともあったから、心配になって」
「で、どうだった」
思い切って自分から訊ねてみる。
「うん……。結果から言うとね、A2だった」
A2。
民喜は懸命に、その言葉が意味するところを考えようとした。BやCではない。とりあえず、良かったのだろうか……? しかし、何も異常がないというA1ではない。
「A2判定は5ミリ以下の結節、または2センチ以下ののう胞が認められた場合を言うの。お医者さんが言うには、咲喜の甲状腺にね、1ミリ程度ののう胞が多発している、って……」
「多発している」という言葉を口にしたところで、母の声は涙声に変わった。
「いますぐ急に病院に行ってください、という程度のものではないから大丈夫と言われたけど……。しばらく一緒に経過を見ましょう、って」
涙声のまま、母は続けた。民喜は狼狽しながら、
「去年、俺らが検査受けたときは何も異常なかったはずだけど……」
と呟いた。
「そう。あれからまだ1年しか経っていないのに、A2になってたの」
やがて、母のすすり泣く声が聴こえてきた。咲喜の顔を思い浮かべながら、民喜は頭から血の気が引いてゆくのを感じた。
「民喜、あなたも検査を受けて。今度、こっちに帰ってきたら」
哀願するような口調で母は言った。
「分かった」
スマホをギュッと耳に押し当て、民喜は頷いた。
「お父さんの言う事なんて、もう一切聞かなくていいから」
低い声で母は呟いた。
母の声を聞きながら、民喜はどこか夢を見ているような、非現実的な感覚に陥っていた。
A2。
1ミリ程度ののう胞が多発。
それら言葉が頭の中をグルグルと駆け巡り始める。
母は鼻をチンとかみ、
「ただ今回、お医者さんから症状を詳しく聞けたのはよかった。県の検査では後日、判定結果がペラッとした紙で送られてくるだけだったでしょう。でもその検査では保護者も診察に同伴できるし、画面を観ながらその場で詳しく症状を説明してくれる。検査レポートもその場で渡してくれるの。診断してくれたのは女性のお医者さんで、私たちと同じように子どもがいるお母さんだったから、こっちの不安もよく分かってくれてた」
幾分落ち着きを取り戻した口調になって言った。
「そうなんだ」
民喜は自分が甲状腺検査を受けたときの殺伐とした雰囲気を思い浮かべた。検査が終わった後も、医者は症状について何も教えてはくれなかった。
「こういう症状は、咲喜だけじゃないって。事故直後に放射線量の高い地域にいた子どもたちは、みんなそう。経過を見守る必要のない子はいない、ってそのお医者さんは言ってた」
母はそう言うと、数秒ほど沈黙し、
「今更後悔してもどうしようもないけど……。あのとき、お父さんと離婚してでも、あなたたちを連れて静岡に避難すればよかった。ごめんね、本当に……」
母はまた涙声になって言った。
「いや、謝らなくていいよ。母さんは別に悪くないよ」
そう言いつつ、民喜は母の口から「離婚」という言葉が出たことにショックを受けていた。この言葉を母の口から直接聞いたのは、思えばこれが初めてのことだった。
胸に錐で刺されたような痛みが走る。
「ごめんね」
と繰り返す母は、民喜が「離婚」という言葉にショックを受けていることには気づいていない様子だった。もしかしたらこの言葉が自然に口をついて出てしまうほど、母は常日頃からこのことを考え続けていたのかもしれない。
「母さんは悪くないよ」
激しく動揺しつつ、民喜は母をフォローした。
母は悪くない。じゃあ、父が悪いのだろうか。「放射線の影響はない」という国や県の言葉を信じ、静岡に避難することに反対し続けた父が悪いのだろうか。
いや――。
民喜は父を責める気にもなれなかった。
じゃあ、一体、誰が悪いのだろう……?
頭の中が靄のようなものに覆われる感覚に襲われてゆく。頭がぼんやりとしてきて、もはや何も考えることができない。
「事故が起こってからずっと放射能のことが不安で仕方なかったけど、民喜も咲喜も2回とも検査で異常がなかったから……。うちの子は大丈夫なんじゃないかって、思うようになってた。いや、そう思い込もうとしてたのね。事故直後には安定ヨウ素剤も飲んでいたし、きっと大丈夫……。この1年くらいは、思えば、放射能について意識することも少なくなってた。
でも先月、恵子さんから翼ちゃんのことを聞いて、ハッと、目が覚めたみたいになって。不安で仕方なくなって、それで今回、検査を受けてみたら……。ホント、お母さん、馬鹿だったわ。どうしようもない。本当に、ごめんなさい」
「謝らなくていいよ」
民喜はかすれた声で呟いた。
母は勢いよく鼻をかみ、
「でもお母さん、決めたの。これからは、何が何でも、あなたたちを守るって」
はっきりとした口調でそう言った。
「この1週間、ずっと考えてたの。どうしたらあなたたちを守ることができるか……」
母はもう一度鼻をかみ、
「先週は、恵子さんの紹介で、会津の放射能問題を考える市民の会に参加してきた。そこには『しゃべり場』があってね、放射能についての不安を何でも率直に話すことができた。咲喜の検査の直後はすごく動揺していて、どうしたらいいか分からなかったけど、かなり助けられたわ。色々相談に乗ってもらったし、ああ、ここに、同じように悩んでいる人たちがいるんだ、ってこともわかった。これまで、放射能の不安について話をすることができるのは恵子さんだけだったから……」
母の声が、どこか遠くの方から聴こえてくるように感じる。ぼんやりとしてくる頭で、民喜は母の言わんとすることを何とか理解しようとした。
「今まで、本当にごめんね」
母は再び繰り返した。