2、

電話を切ると、民喜は脱力したように布団の上に座り込んだ。頭の中がひどく混乱していた。

母のすすり泣く声が頭から離れない。その母のすすり泣く声と呼応するように、頭の中を様々な言葉が飛び交っている。

A2

1ミリ程度ののう胞」

「多発」

そして「離婚」――

その言葉のどれもが不穏な空気をまとい、民喜の頭から血の気を失わせていた。

まず咲喜のことについて、意識を集中してみることにする。この度の「A2」という検査結果を、どう受け止めたらいいのか……? 

医者の言う通り、すぐに病院に行く必要はない程度のものなのかもしれない。でも今後、万が一A2からさらにBになり、BからCにまで進んでゆくようなことになったら……。

貞子の真似をして楽しそうに笑っていた咲喜の顔、改札の外で飛び跳ねながらこちらに手を振っている咲喜の姿が浮かんでくる。

民喜は胃の中がギュッと締め付けられるような不安を感じた。

「翼のことも、やっぱり現時点では、科学的に『因果関係が分からない』ということにされちまうんだ」

「翼のことだけじゃねえ。福島やその近辺で子どもの甲状腺がんがこんだけ多発していても、国や専門家の答えは『因果関係が分からない』『放射線の影響とは考えにくい』、そればっかりだ」――

先日の駿との会話を思い起こす。子どもの甲状腺がんの多発について、国や一部の専門家たちの見解は「放射線の影響とは考えにくい」一辺倒だと駿は言った。

この度の咲喜の症状が放射能の影響なのか、それとも、そうではないのか、自分にはまだよく分からない。専門家だってよく分からないのかもしれない。しかし、「分からない」からと言って、事故とは「無関係だ」と言い切られると納得がいかない、と思う。

大丈夫だと楽観している間に、どんどん症状が進んでいってしまったら、どうするんだ? 事故とは「無関係だ」と言い張っている間に……。

あいつらは何も悪くないのに――

「民喜、あなたも検査を受けて。今度こっちに帰ってきたら」――

 母の言葉がよみがえってくる。民喜は思わず自分ののど元に手を当てた。

そう言えば、俺の甲状腺はどうなんだろう……?

のどの筋肉が不安と緊張とでこわばっているのを感じる。自分の体もいまどうなっているのか、これから先どうなってゆくのか、よく分からない。

つばを飲み込む。ゴクリと音がした次の瞬間、気管に入ってむせてしまった。ゴホゴホ……としばらく咳き込む。……

 

「福島第一原子力発電所で緊急事態が発生しました。全町民、念のため、K村役場を目指して避難してください」――

震災の翌日の312日の朝、隣接するK村への避難を指示する放送が町中に響き渡った。町民全員に対する避難指示だった。

「急いで、着替えを用意して」

青ざめた顔で母は言った。

地震で物が散乱した家の中を片付ける間もなく、数日分の着替え等を積んで、民喜たち家族は隣接するK村に車で向かった。

避難する自分たちのもとには、まったく情報が伝わってこない。わずかに伝え聞いているのは、原子力発電所で何か緊急の事態が生じたらしい、ということだけだった。

両親も町の人々も、数日経ったらまた戻れると考えていたようだった。しかし、3日後の15日には避難先のK村も避難区域となった。民喜たちは翌朝、K村の人々とさらに中通りの郡山市へと避難した。

高校1年だった民喜には、自分たちの身に一体何が起こっているのか理解することができなかった。23日で帰れると思っていたのに、一向にその気配がない。むしろ避難する度に、家からどんどん遠ざかってゆく。

「ホウシャノウ」というよく分からぬものから逃避行を続けたこの数日間のことを、民喜は断片的にしか覚えていない。

果てしなく続く自動車の列。

避難した町民でいっぱいになった体育館。

……などの光景の断片をおぼろげに覚えているだけだった。あとは、外がひどく寒かったこと。郡山についた日は雪が舞っていた気もする。

当時のことを無理に思い出そうとすると、意識がフッと遠のいてしまうような感覚があった。

郡山の展示場ビッグパレットでの数週間の避難所生活の後、民喜たち家族はいわき市の借り上げ住宅に移り住んだ。

 

ようやく咳が落ち着くと、民喜は立ち上がって台所に行き、水を一杯飲んだ。

あのとき、自分たちはどれほど被ばくしてしまったのだろう?

コップを手に民喜は考えていた。

国や一部の専門家たちが言うように、それは健康に影響のない範囲のものだったのか、それとも、そうではなく、とんでもない数値のものだったのか……。

よく分からない。よく分からないということが、最近ひどく不気味に思えてしまう。

胃にまた気持ち悪さを感じる。胃の中が重苦しい。胃がギュッと締め付けられるような――。そう言えば、避難を続けていた数日間も、このような重苦しさを感じていたような気もする。

部屋に戻り、布団の上にしゃがみ込む。気管支の辺りがまた苦しくなって、ゴホゴホと咳をする。

すると民喜の目の前に、白い防護服を着た人の姿が浮かんだ。……

 

 

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作者:鈴木太緒(すずき・たお)

   岩手県花巻市在住。猫3匹と同居。

お問い合わせ:neanderthal.no.asa@gmail.com