2、
秋の定演まで残り2週間となった。
明け方まで起きていた民喜は3時間ほどの仮眠を取った後、何とか起き出して練習に向かった。
頭がぼんやりとして怠かったが、力を振り絞って練習室のある西棟の階段を上る。土曜日の今日は朝の10時から練習が予定されていた。
313号室に到着すると、もう開始時間ギリギリだった。練習室には民喜以外の部員は皆、すでに集まっているようだった。
「民喜っち、おはよう」
パートリーダーの中田悠が声をかけてくる。
「おはよう」
無理して笑顔を作って、テナーパートの輪の中に入る。
正面の黒板に書かれた「秋の定演まで、あと14日!」という文字が目に留まる。赤と黄色のチョークで強調されたそれらの文字が心に重くのしかかってくる。
明日香の姿を探す。明日香は教室の後ろの方で、アルトパートの女の子たちと楽譜を見ながら何か相談をしていた。民喜が教室に入って来たことには気がついていないようだった。
「今回の定演、俺、無理かも」
休憩時間、民喜は中田悠に向かってこの2週間ずっと考え続けていたことを打ち明けた。
一緒に壁にもたれて座っていた彼は、
「えっ、何が」
目を大きく見開き、その中性的な顔立ちを民喜に向けた。
「みんなの足引っ張るだけだから……。ホント申し訳ないけど、俺は今回は出ない方がいいと思う」
そう言って民喜は自分の靴の先を見つめた。
今日の練習でも、やっぱりうまく歌うことができなかった。テナーパートの他のメンバーにまったくついてゆくことができない。本番2週間前だというのに、譜面通りに歌うことさえ覚束ない状態。焦れば焦る程、のどの筋肉はますますこわばってゆく。歌いながら、(もう無理だ)と民喜ははっきりと悟った。
「そんなことない。まだあと2週間あるじゃん。頑張ろうよ」
中田悠は困惑した表情で、
「このメンバーで歌うのは最後になるかもしれないんだから」
そう言われると、民喜は気持ちが揺らいでしまった。確かに、このメンバーで歌うことができるのは今回が最後になるかもしれない。明日香とも一緒に定演に出たかった。
でも――。
自分にはもう定演に参加するだけの力がないことを民喜は理解していた。
顔を上げると、いつの間にか他のテナーメンバーも周りに集まり、民喜の顔を心配そうに覗き込んでいた。
「民喜っちの声が必要なんだよ」
中田悠が珍しく、力のこもった口調で言った。
俺の声が必要?
不可思議な想いで中田悠の顔を見つめ返す。そんなこと、考えたこともなかったが……。
「民喜さんは俺らテナーのムードメーカーですよ。民喜さんがいてくれないと困りますよー」
一年後輩の榎本が、困っているような、笑っているような表情で言った。
ムードメーカー? 俺が、テナーの?
それも、考えたこともなかった。自分なんかいなくても何も問題ないだろう。何の問題もなく、素晴らしい定演になるだろう、と思う。
皆に心配そうな表情で見つめられている状況に耐え切れず、
「うん、分かった。ごめん。変なこと言って」
民喜は無理して笑顔を作り、そそくさと立ち上がった。
「頑張るわ」
口からつい、「頑張る」という言葉が出てしまう。
中田悠たちはホッとした表情になり、
「よかった」
と口々に言った。
「驚かせないでくださいよー」
榎本はおどけた調子で民喜の肩を叩いた。
「ごめん、ごめーん。いまの、なかったことにして」
同じくおどけた調子で返しながら、民喜は全身が脱力してゆくのを感じた。